海壁

第三十五章

一滴

挿絵:一滴

次の日、街じゅうで、方法を、探した。

ニコが、ドンに、頼んだ。散った血を、集められないか。ドンは、長いこと黙ってから、答えた。海じゅうに、散っている。つかむ前に、指のあいだから、こぼれる、と。

燃やせば、ケインの血は、消える。けれど、海は、燃やせなかった。

ベルが、昼にも、杭を見に行った。戻ってきて、一言だけ、言った。

『今朝より、また、少し、速いです』


夜、マーロウは、納屋の灯りの下で、上着の内側から、板を、取り出した。

エリス・ケインが、機械の中に残した、錆びない金属の板。表には、イーダの座り方のことと、一つだけの頼みが、刻んである。

あなたの血は、海を粒にします。機械が、なくても。

ケインの血について書かれたものは、ほかに、どこにもなかった。

セラフィナが、板を、受け取った。灯りの前で、ゆっくり、傾けた。表を。それから、裏を。

セラフィナの手が、止まった。

『…裏に、何か、あります』

灯りを、低く、斜めから、当てた。

何もないと思っていた裏の面に、髪の毛ほどの細い線が、浮かびあがった。針の先で、ごく浅く、刻んだ字だった。まっすぐ見ても、見えない。低い灯りを、斜めに当てたときだけ、影ができる。

『光を、まっすぐ当てると、消えます。…わざと、そう刻んであります』

ロズリンが、眼鏡を、かけ直した。板に、顔を、近づけた。

それから、一行ずつ、声に出して、読んだ。

読まなくていい日が続くなら、これは、読まないで。

それでも、読んでいるなら。

鍵を、閉じる方法を、一つだけ、残します。

ブラックウッドの子に、あなたの血を、一滴。

ブラックウッドの子は、粒を、水に戻します。ケインの血の結び目も、ほどきます。

ほどけた血は、ただの血に戻ります。どこにあっても。一滴、残らず。

あなたの中の、血も。

その先のことは、私にも、分かりません。

ごめんなさい。

エリス・ケイン

ロズリンの声が、最後の名前のところで、かすれた。

誰も、動かなかった。

ブラックウッドの子。ヨアの子。壁の根の水路で、ヨカが、眠っていた。

「…ヨカに、一滴か」

マーロウが、言った。


オスカが、マーロウの横に、座っていた。

『あたしも、止まる?』

マーロウは、すぐには、答えなかった。

「…たぶんな」

オスカの燃料は、マーロウの血だけだった。朝の一滴が、ただの血になれば。

オスカは、自分の、開いたままの両手を、見下ろした。

『そっか』

しばらく、黙っていた。

『一人で決めるの、なし。…ミラベルが、言ってた。あたしの中の、ミラベルの毎日に、ある』

「ああ。…言ってたな」

『だから、あたしも、決める』

オスカは、顔を、上げた。ミラベルと、同じ顔で。

『海、なくなったら、ヨカも、ドンも、トンも、コンも、いなくなる。…ヨアの子たちの井戸も、みんな』

オスカは、マーロウの手を、左右から、挟んだ。

『いいよ』

ウィラが、戸口に、立っていた。いつから聞いていたのか、分からなかった。

『…やだ』

ウィラの声が、震えていた。

『やだ。やだ。…ミラベルも、いなくなったのに。父さんまで』

「ウィラ」

『分かってる。…分かってるの。浜の粒、見たもん。杭も、見たもん』

ウィラは、顔を、ぐしゃぐしゃにして、泣いた。泣きながら、角笛を、握りしめていた。

『…守る』

ウィラは、言った。

『リーネは、あたしが、守る。…父さんの、娘だから』

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。二十六度目だった。

それから、長いこと、手を、どけなかった。


夜更け、マーロウは、干し草の上で眠るリーネの横に、しゃがんだ。

板壁の、新しい一本の線。つぎの たんじょうびまで。

マーロウは、腰の袋から、鉤を出して、その下に、字を、刻んだ。まっすぐな字は、得意ではなかった。曲がった。

リーネ・グリム・ケイン。

その下に、もう一行。

かぞえるのが、うるさい。

それから、リーネの砂色の髪を、一度だけ、撫でた。起こさなかった。


夜明け前、壁の根の水路へ、下りた。

マーロウと、オスカと、ウィラ。それに、ベル。

ヨカが、水路の水の中で、青く、ゆっくり、光っていた。

マーロウは、水路の縁に、腰を下ろした。背中を、壁につけて。膝は、抱えずに。

それから、鉤で、左の指を、突いた。

一滴目を、オスカの唇に。

「おはよう、オスカ」

『おはよう』

「百六十」

二滴目が、指の先に、ふくらんだ。

オスカが、マーロウの手を、開いたままの両手で、左右から、挟んだ。

マーロウは、指を、水路の上に、差し出した。

「…ウィラ。リーネを」

『守る』

「ベル。…海、測っとけ」

『はい。…うん』

「オスカ」

『はさんでる。…ずっと』

マーロウは、少しだけ、笑った。

「…百六十一からは、おまえらが、数えろ」

一滴が、落ちた。

ヨカの青い光が、一度、大きく、脈打った。

光が、水路を走った。壁の根の排水口を抜けて、乾いた底だった水の中を、海へ。海の、ずっと沖まで。

波打ち際で、打ち上がっていた小さな粒の光が、一つ、また一つと、消えていった。

マーロウの指先から、細い光が、ほどけはじめた。糸のように。指から、手首へ。腕へ。

痛くは、なかった。軽かった。

マーロウは、ウィラを、見た。ベルを、見た。オスカを、見た。

最後に、海のほうを、見た。禁止区のいちばん南の、白い石のほうを。

「…待たせたな」

それが、最後だった。

光が、ほどけきった。

水路の縁に、マーロウの座っていた場所に、何も、なかった。

オスカの両手が、何もない空を、左右から、挟んでいた。

オスカの目の光が、ゆっくり、薄くなった。オスカは、挟んだまま、動かなくなった。

ウィラの声が、水路に、響いた。何と叫んだのか、自分でも、分からなかった。


朝の光が、差しこんできた。

うしろで、小さな足音が、した。

リーネだった。袖を三回まくった外套のまま、裸足で、立っていた。

『…おじさん?』

水路の縁の、マーロウの座っていた石の上に、粒が、一つ、残っていた。

リーネは、それを、拾い上げた。

小さな両手で、光に、かざした。

表を見た。裏を見た。

何も、なかった。

『…なにも、かいてない』

機械が止まってから、百六十四日目の朝だった。

第三十五章 了

第十一巻 了

第十一巻の終わり 人物相関図
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