第二章
浜の朝

朝、納屋の戸口で、ミラベルが、鉤で、マーロウの左の人差し指を、ちょんと突いた。
一滴を、自分の唇に。もう一滴を、オスカの唇に。
『おはよう、ミラベル』
「おはよう、オスカ」
布は、ベルの焚き火へ。
ミラベルは、くるりと背中を向けた。マーロウは、うしろから、ミラベルを抱いた。
『六十三!』
今日は、はっきり、口に出した。
「…数えるな」
杭の列から、ベルが、歩いて戻ってきた。
『今朝も、増えました。浜の草の、いちばん下の端まで、水が来ています』
「春の高さか」
『あと、指の関節、一つです。…ただ、底の主の池のところだけは、まだ、深いままです。杭が、届きません』
「底の主の、池か」
ベルは、それから、焚き火のほうへ、布を燃やしに行った。
『嬢ちゃーん! エマの朝ごはん、行こー!』
納屋の奥から、ウィラが、エマの綱を引いて出てきた。ミラベルが、綱の端を、片手でつかんだ。いつもの朝だった。
「おれも行く。帝都に発つ前に、春の高さの海を、見ておく」
『でーと?』
「違う」
『嬢ちゃんとエマつきの、でーと』
浜は、朝の光で、緑に光っていた。
ドンは、もう、いなかった。ゆうべ、南へ帰った。沖は、静かだった。
エマは、浜に降りると、やっぱり、草のほうへ走った。ウィラとミラベルが、二人で綱を持って、ずるずると、ついていった。
マーロウは、少し離れた乾いた岩に、腰を下ろした。
草は、浜の北の端から、手のひらを広げたような形に、生えそろっていた。ドンの手の形だった。その指の先のあたりは、もう、朝の海に、浸かりかけていた。
エマは、乾いたところの草を食べ終えると、濡れた草のほうへ、首を伸ばした。
「エマ、そっちは、だめ」
ウィラが、綱を引いた。エマは、少しだけ戻って、また、首を伸ばした。いちばん先の、いちばん柔らかい、若い草のほうへ。
ミラベルは、濡れた砂の手前で、止まった。いつものように。綱を、ウィラに渡した。
『嬢ちゃん、あたし、ここまで。…エマ、引っぱりすぎないでね』
「分かってる」
ミラベルは、一歩、下がって、岩の上のマーロウに、手を振った。
マーロウは、振り返さなかった。ミラベルは、それでも、うれしそうに、もう一度、振った。
エマが、若い草を、一口、食べた。
もう一歩、踏み出した。
その足もとの砂が、崩れた。
乾いた底だったころ、そこには、底の主が眠っていた。這い出したあとに、大きな池が残った。池は、今、海の下にあった。浅い海の中に、そこだけ、深い穴が、口を開けていた。
エマの前脚が、穴の縁から、滑り落ちた。エマが、驚いて、鳴いた。重い体が、ずるりと、深い水のほうへ、引きこまれた。
綱が、ぴんと張った。
ウィラが、エマの名前を、叫んだ。
ウィラは、綱を、離さなかった。
両手で、握りしめたまま、足を、濡れた砂に、踏んばった。砂が、崩れた。
「ウィラ! 綱を離せ!」
マーロウが、岩から、跳ね起きていた。
ウィラは、振り向かなかった。
『やだ!』
ウィラの声だった。
『十一頭、見送ったの! 名前つけたのに、見送っただけだったの! …今度は、離さない!』
エマの体が、穴の中へ、沈んだ。
綱ごと、ウィラが、引きずりこまれた。
赤茶の髪が、一度、水面に浮かんで、渦の中に、消えた。
マーロウは、走っていた。けれど、岩から、波打ち際までは、遠かった。
ミラベルは、波打ち際の、一歩手前にいた。
考えるより先に、体が、そう動いていた。
濡れた砂を、蹴った。
いつも、水に足をつけなかった体が、海に、飛びこんだ。
次の瞬間、穴の上の海から、白い湯気が、しゅうっと、噴き上がった。
機械が止まってから、六十七日目の朝だった。
第二章 了