海壁

第二十四章

井戸の水

挿絵:井戸の水

マーロウは、女の子の前に、膝をついた。目の高さを、合わせた。

何と言えばいいのか、分からなかった。

村の長が、荷車から、ゆっくり、降りてきた。杖をついていた。

『ケインの子。…覚えておいでか。荒れ地の村の者です』

「覚えてる。壺を抱えてた」

『その壺の子を、井戸に、放しました。この街で分けてもらった粒を、毎日、少しずつ、やりました。二十日目の朝に、井戸の底に、水が、たまりました』

村の長の、しわだらけの顔が、少しだけ、ゆるんだ。

『水が出たので、牛を、一頭、飼いました。そこの、痩せたのです。…この娘が、名前を、つけました』

女の子が、荷車の牛を、振り返った。

『アンズ』

それだけ言って、また、マーロウを見た。答えを、待っていた。

村の長が、低い声で、言った。

『この娘は、親がおりません。親が名前をつける前に、二人とも、死にました。村では、スズメ、と呼んでおります。小さくて、よく鳴くので。…名前では、ありません。…この街を発つ前の晩、金属の手の娘さんが、この子に、言ったそうです。春になったら、迎えに行くからね、と』

マーロウの息が、止まった。

春になったら、拾いに行こ。荒れ地の村に、親のいない子が、何人かいるって。

浜の端の岩の上で、ミラベルは、そう言った。何人か、と。一人とは、言わなかった。

けれど、もう、決めていたのだ。

『春まで、待てないと、毎晩、泣きまして。…水が出た報せのついでに、連れてまいりました。十日かかりました』


女の子は、まだ、マーロウを見ていた。

マーロウは、その目を、見返した。

「…ねえちゃんは、死んだ」

女の子の目が、動かなかった。

「海に、入った。…そこにいる、ウィラを、助けて」

ウィラが、マーロウのうしろで、唇を、噛んでいた。

女の子は、しばらく、黙っていた。それから、小さな声で、訊いた。

『…じゃあ、春、来ない?』

「春は、来る」

マーロウは、言った。

「迎えに行くって、言ったのは、あいつだけじゃない。…おれも、言った。約束だ、と」

『おじさんも?』

「おじさんも、だ」

女の子は、マーロウの顔を、じっと、見ていた。嘘かどうか、確かめるように。

それから、荷車のほうへ、走っていった。荷台の藁の中から、小さな瓶を、一つ、取り出した。走って、戻ってきた。

『これ。…ねえちゃんに、見せたかった』

瓶の中に、水が、半分ほど、入っていた。

『井戸から、最初に出た、水』


夜、マーロウは、女の子を連れて、禁止区のいちばん南の岩へ、行った。ウィラとオスカが、うしろから、ついてきた。

リーネの石の前で、ベルンハルトの灯りが、点いていた。その隣に、白い石。曲がった字。ミラベル・グリム・ケイン。数えるのが、うるさい。

「ここだ」

女の子は、白い石の前に、しゃがんだ。字は、読めなかった。けれど、指で、一字ずつ、なぞった。

それから、瓶の栓を、抜いた。

石の上に、少しずつ、水を、かけた。曲がった字の溝に、水が、たまって、灯りを、映した。

『ねえちゃん。井戸、水、出たよ』

女の子の声は、小さかった。

『アンズ、飼ったよ。…あたしが、名前、つけた』

それから、瓶を、石の横に、立てた。

マーロウは、その横に、腰を下ろした。背中を岩につけて。膝は、抱えずに。

「…来たぞ」

マーロウは、石に、言った。

「おまえが、迎えに行くって言った子が。…自分で、来た。十日かけて」

波の音が、していた。

「春まで、待たせる。…拾ってから、名前だ。おまえと、そう決めた」

女の子が、振り向いた。

『名前?』

「おまえの、名前だ。春になったら、やる」

『今じゃ、だめ?』

「春だ」

女の子は、口を、とがらせた。それから、しゃがんだまま、マーロウを見上げた。

『春まで、ここにいて、いい?』

マーロウは、すぐには、答えなかった。

ウィラが、先に、女の子の横に、しゃがんだ。

「いていい。…あたしが、見てる」

ウィラは、女の子の短い髪を、そっと、撫でた。

「あたしの、妹だもん。今日から」

女の子は、ウィラを見て、それから、マーロウを見た。

マーロウは、少しだけ、頷いた。

「…いろ」

オスカが、女の子の反対側に、しゃがんだ。開いたままの両手を、見せた。

「金属の手。…あたしのは、両方」

女の子は、オスカの手を、じっと見た。それから、自分の小さな両手で、オスカの手を、左右から、挟んだ。

『つめたい』

「うん。…でも、はさめる」

灯りの下で、四人の影が、石の前に、並んでいた。

機械が止まってから、八十三日目の夜だった。

第二十四章 了