第二十三章
帰り道

朝、マーロウは、左の中指を、突いた。手のひらと親指は、ゆうべ、何度も裂いていた。
一滴を、オスカの唇に。
「おはよう、オスカ」
『おはよう』
「七十六」
塔の前の白い道に、船が、二隻、浮いていた。
セラフィナの船は、帝都へ。縄をかけたオズワルドと、両腕に布を巻いたブルーノと、ヴァルターと、グレイの兵たちを乗せて。
もう一隻は、オズワルドの船だった。旗のない、灰色の船。セラフィナが、グレイの兵を五人、帆につけてくれた。
『この船は、海壁の街へ。…ケインの子の足に、お使いください』
「帝国の船だろ」
『ハイトの家の船です。ハイトの家は、しばらく、船を持てなくなります。…セドリックが、そう書くはずですので』
セラフィナは、ほんの少しだけ、口の端を、上げた。
サイラスは、塔の入口に、立っていた。父と、その弟子の、うしろに。
『私は、ここに、残ります』
「見張りか」
『はい。父と、ユリウスを。…二人とも、止まったものを、放っておけない人ですので』
サイラスは、眼鏡を押し上げた。つるは、まだ、曲がったままだった。
エステルが、マーロウの前に、来た。一の粒の灯りを、胸に抱えて。
『…聞いても、いいですか』
マーロウは、黙って、屈んだ。
エステルが、耳を、マーロウの胸に、押し当てた。
『動いてます。…ゆうべより、ゆっくり』
「血が、減ったからな」
『ちゃんと、食べてください。陛下も、それだけは、うるさかったです』
エステルは、それから、オスカの前へ行った。オスカの開いたままの両手を、自分の小さな両手で、左右から、挟んだ。
『春に、会いに行く。…おかあさまと』
「うん。…待ってる」
セラフィナが、マーロウに、頭を下げた。
『春に、エステルを連れて、伺います。リーネ様と、ミラベル様の石に』
船に乗る前に、ブルーノが、オスカの前で、足を止めた。焼けた両腕を、布の中で、少しだけ、持ち上げた。
『名前、ある、って言ったろ』
「言った」
『…おれも、覚えとく。オスカ』
ブルーノは、それだけ言って、父のあとから、梯子を、上がっていった。
帰りの船で、マーロウは、ほとんど、眠っていた。
甲板の隅の、帆の陰で。毛布を二枚、かけられて。
目を開けるたびに、オスカが、横に、座っていた。ケインの座り方で。
二日目の夕方、マーロウが目を覚ますと、オスカが、マーロウの胸の上に、開いた手を、そっと、置いていた。
「…何してる」
『ミラベルみたいに、数えてみた』
「何を」
『心臓』
オスカは、少し、困った顔を、した。
『百で、分かんなくなった。…ミラベル、毎朝、どうやって、数えてたんだろ』
マーロウは、空を、見た。
「…数えてたのは、心臓じゃない」
『じゃあ、何』
「朝だ。…おれが、うしろから、抱いた朝」
オスカは、しばらく、黙っていた。
『今、何個目』
「七十七」
『…多いね』
「少ないだろ」
オスカは、首を傾げた。それから、手を、マーロウの胸から、どけなかった。
機械が止まってから、八十三日目の夕方、海壁の街の灯りが、見えた。
壁のいちばん高いところに、人影が、あった。横に、牛の影。
船が東門の外に降りるより先に、人影が、壁の階段を、駆け下りてきた。
ウィラだった。
光の柱の下まで、走ってきて、マーロウの胸に、頭から、ぶつかった。
『おかえり、父さん』
「…ただいま」
ウィラは、顔を上げた。マーロウの手の布と、青い顔を、見た。
『血、使ったでしょ』
「少しな」
『少しじゃない顔、してる』
ウィラは、それから、オスカの前で、両腕を広げた。
『ただいま』
「おかえり、オスカ」
門の前に、みんなが、いた。ドラグ。外套の前が、前より丸くなったロズリン。ベル。ガス、オット、サム。ミアとミラ。ニムと、ヴェスタ。ガルドと、グロム。
ベルが、一歩、前に出た。
『海は、毎朝、増えました。…一〇六番、顔が、白いです』
「知ってる」
ウィラが、マーロウの袖を、引いた。
『父さん。…お客さん、来てる。五日前から』
門の脇に、牛の荷車が、一台、止まっていた。痩せた、若い牛が、一頭。荷車の上に、年寄りのゴブリンが、座っていた。荒れ地の村の長だった。港の船が荒れ地の人たちを乗せて東へ発った朝、ヨアの子の壺を、両腕で抱えていた男だった。
その荷車の陰から、小さな女の子が、一人、出てきた。
砂色の髪を、短く、刈られていた。目ばかり、大きかった。荒れ地の人たちが街を発つ朝、ウィラの首に抱きついて、杏、おいしかった、と言った子だった。
女の子は、マーロウを、見上げた。
それから、マーロウのうしろの、オスカを、見た。ミラベルと同じ顔を。
女の子の顔が、ぱっと、明るくなって、それから、止まった。
オスカの腕を、見ていた。両腕とも、肘から先が、金属だった。左腕だけでは、なかった。
女の子は、もう一度、マーロウを見上げた。
『…金属の手の、ねえちゃんは?』
機械が止まってから、八十三日目の夕方だった。
第二十三章 了