海壁

第二十章

ベルは、ベル

挿絵:ベルは、ベル

槽の底の口から、貯め池の水が、細く、入りはじめた。

東の砂の下の海の水だった。透きとおって、冷たかった。指一本ぶんずつ、槽の底に、たまっていった。

ユリウスが、槽の横の栓に、手をかけていた。

ジェロームは、部屋の入口に、立っていた。何も言わなかった。

しばらくして、一言だけ、言った。

『写しは、写しです』

「分かってる」

マーロウは、槽を見たまま、答えた。

ジェロームは、それ以上、何も、言わなかった。


夜になった。

部屋の中は、明るかった。壁の板が、ずっと、白く光っていた。

ユリウスは、栓の横で、壁にもたれて、眠っていた。サイラスは、塔の外へ、父の毛布を取りに行っていた。オスカは、槽の前に、座っていた。ケインの座り方で。

槽の水は、オスカの膝の高さまで、来ていた。

マーロウは、板の前を、歩いていた。一枚ずつ、指で触れて。

『坊や、ごはん、ちゃんと食べた?』

『坊や、今日も、心臓、ちゃんと動いてる?』

『ねえ、坊や。今日、雲、ひとつもないよ』

どれも、何でもない声だった。何でもない声が、何百枚も、並んでいた。

いちばん奥の、壁の角の一枚に、触れた。

板の縁の字は、少し、ほかと違っていた。一番、二番。帝国暦三四八年。壁の上。

『私は、一番の顔で、作られました』

ベルの声だった。まだ、ずっと、平らだったころの。

「うん。知ってる」

ミラベルの声が、答えた。

『私が、一番の代わりになれば、一番は、休めますか』

「なれないよ」

ミラベルの声は、あっさりしていた。

「なってほしくないの。…だから、名前、半分あげたの。ミラベルの、ベル」

『名前を、半分』

「ベルは、あたしの顔だけど、あたしじゃない。…ベルは、ベルになるの」

少し、風の音が、入っていた。壁の上の、風の音。

「あたしが、いつか、いなくなっても。ベルは、ベルでいてね。…あたしの代わりに、ならないで」

『…はい』

「はい、じゃなくて、うん」

『…うん』

板の光が、暗くなった。

マーロウは、その場に、立ちつくしていた。

名前のないものは、止めるときに、誰も泣かない。二百年あまり前、オスカー・グリムが、帝都で、そう言ったと、ベアタが話していた。

槽の中で、四十日かけて、同じ顔が、できあがる。同じ声で、同じ言葉を、覚えている。

それに、何と、名前をつける。

ミラベル、と、呼ぶのか。

ミラベル・グリム・ケインは、禁止区のいちばん南の、白い石の下にいた。ガルドが、左手で、一字ずつ、曲がった字で、刻んだ。数えるのが、うるさい、と。

一人だった。

マーロウは、振り向いた。

「ユリウス」

ユリウスが、跳ね起きた。

「…止めろ」

ユリウスが、栓に、手を伸ばした。その前に、別の手が、栓を、閉じていた。

ジェロームだった。いつから、そこにいたのか、分からなかった。

『…はい』

ジェロームの声は、少しだけ、震えていた。

『槽の水を、抜きます。…抜いて、よろしいですね』

「抜け」


槽の水が、底の口から、抜けていった。

オスカが、ケインの座り方のまま、マーロウを、見上げた。

『…止めた?』

「止めた」

『よかった』

オスカは、少し、考えた。

『あたし、きょうだい、もう、いっぱいいる。ミラも、ベルも』

マーロウは、槽の横の、台を、見た。錆びない金属の、低い台。そこから、細い硝子の線が、何百本も、壁の板へ、伸びていた。板の毎日を、槽へ写すための、台だった。

「オスカ。…あれを、止めろ」

『壊す?』

「二度と、誰にも、写させない。…長たちにも、誰にも」

オスカは、剣を、挟んだ。

立ち上がった。

一つを、選んだ。台のまん中の、硝子の線が束になって入っていく、錆びない金属の、継ぎ目。

柄の頭を、胸に当てた。体ごと、前へ。

切っ先が、継ぎ目を、貫いた。

台から、壁の板へ伸びていた硝子の線が、一本残らず、暗くなった。板の光は、消えなかった。声を、しまったまま、白く、光っていた。

オスカは、剣を、抜いた。

そのとき、ユリウスの顔から、血の気が、引いた。

『…しまった』

「何だ」

『長に、言われて、台に、仕掛けを、つないでおきました。…台に刃を当てた者を、払え、と』

廊下の奥で、金属の音が、した。

一つ。十。数えきれないほど。

重いものが、床を、這う音だった。

『本部の手です。…ミラベル殿が、昔、指を落とした十二本に、倉に残っていた十八本を足して、三十本、直しました。私が』

部屋の入口の向こうの、暗い廊下が、白く、光りはじめた。

指先の、光だった。

機械が止まってから、七十九日目の夜だった。

第二十章 了