第三十一章
井戸

雪が溶けて、ひと月と少しが、過ぎた。
朝、納屋の戸口で、マーロウは、指を突いた。一滴を、オスカの唇に。
「おはよう、オスカ」
『おはよう』
「百五十四」
スズメが、板壁の前で、釘を握っていた。
六十本の線のうち、斜めの線が引かれていないのは、もう、四本だけだった。
スズメは、そのうちの一本に、斜めの線を、引いた。
『あと、三つ!』
スズメは、板壁の前で、跳ねた。ウィラの古い外套の袖が、ぱたぱたと、揺れた。
『おじさん! あと三つ!』
「数えてる」
『名前、何?』
「春だ」
『ちょっとだけ。最初の字だけ』
「春だ」
スズメは、口を、とがらせた。それから、また、跳ねた。
ドラグの部屋の前では、ロズリンが、椅子に座って、日向ぼっこをしていた。胸に、ケイルを、抱いて。
チビは、ひと月で、ずいぶん、大きくなった。泣き声は、生まれた朝から、ずっと、でかいままだった。
ドラグが、揺りかごの角を、まだ、削っていた。
『隊長。もう、丸いです』
「まだ、とがっとる」
『…隊長の指のほうが、とがっています』
ウィラが、壁の階段を、駆け下りてきた。角笛を、首から下げて。
「ロズリン! あたし、昨日で、三か月!」
『はい。帳面に、書いておきました』
ロズリンは、帳面を、めくってみせた。
帝国暦三五〇年、冬の終わり。ウィラ・ケイン、海に浸かってから、三か月。もう、どこへでも行ける。
ウィラは、その一行を、しばらく、見ていた。
『…どこへでも、か』
それから、東門の外の、丘のほうを、見た。
昼過ぎ、東の空から、グリフォンが、一騎、帰ってきた。
ロルフだった。荒れ地のほうの空を、見回っていた。
ロルフは、グリフォンから飛び降りて、マーロウの前に、駆けてきた。
『荒れ地の村です! 井戸のまわりに、人が、五十人ほど!』
「村の者じゃないのか」
『違います。村の人たちは、井戸のまわりに、荷車を並べて、立てこもっています。外の五十人は、弓を持っています。矢の先に、布の袋が、ついていました』
ほどき矢だった。
『隣の谷の人たちだと、村の子どもが、叫んでいました。…井戸を、よこせ、と』
マーロウの横で、スズメの顔が、白くなった。
『…アンズ』
スズメの声が、震えた。
『アンズ、井戸の、そばに、いる。…じいちゃんも』
荒れ地の井戸には、ヨアの子がいた。村の長が、この街から壺で抱えて帰った子だった。粒をやれば、井戸の底に、水をためる。乾いた荒れ地で、たった一つの、水の出る井戸だった。
隣の谷にも、水は、ない。
『あたしが、行く』
ウィラが、言った。
「ウィラ」
『三か月、終わったもん。…もう、どこへでも行ける。ロズリンが、そう書いた』
ウィラは、首の角笛を、握っていた。
『守るのは、ここだけじゃない。スズメの村も。アンズも』
そのとき、うしろから、声がした。
『ウィラは、行けません』
ベルの声だった。杭の列から、戻ってきたところだった。
『嵐の夜に、ウィラは、スズメを助けて、もう一度、頭まで、海に浸かりました。…三か月は、その日から、数え直しです。スズメも、同じです』
ウィラの口が、開いた。
『あと、ひと月と、少しです』
ロズリンが、帳面を、胸に抱いたまま、目を、閉じた。
『…私の、書き間違いです。嵐の夜のことを、数えに入れていませんでした』
ロズリンは、帳面を開いて、さっきの一行の横に、細い字で、書き足した。嵐の夜、もう一度。三か月は、そこから。
『間違いは、記録して、直します。…ごめんなさい、ウィラ』
ウィラは、しばらく、唇を、噛んでいた。
それから、首の角笛を、両手で、握りなおした。
『…じゃあ、守る。スズメと、ここを』
マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。二十五度目だった。
それから、オスカを見た。オスカは、もう、剣を、挟んでいた。
オスカの一滴は、毎朝、マーロウの指からしか、出ない。オスカが行くなら、マーロウも、行く。
「…行く。おれと、オスカと、グレゴールと、ロルフだ」
ドラグが、揺りかごを置いて、立ち上がっていた。
『船なら、セラフィナの置いていった灰色の船がある。グレイの兵が、五人、帆についとる。…荒れ地の村なら、一日半で着く』
「借りる」
『貸すとは言っとらん。持っていけ』
夕方、灰色の船が、東門の外で、光の柱を、太くした。
スズメが、梯子の下で、マーロウの外套の裾を、つかんでいた。
『…あたしも』
「おまえは、ここだ」
『アンズ、あたしが、名前、つけたの』
「知ってる」
マーロウは、しゃがんで、スズメと、目の高さを、合わせた。
「アンズも、じいちゃんも、連れて帰ってくる。…おまえは、板壁の線を、毎朝、一本ずつ、消しとけ」
スズメは、唇を、噛んだ。
『…春までに、帰ってくる?』
「帰ってくる」
『あと、三つだよ』
「分かってる」
マーロウは、立ち上がった。梯子に、足をかけた。
うしろで、ウィラが、スズメの手を、握っていた。反対側で、ベルが、スズメの肩に、手を、置いていた。
『スズメ。…一番も、よく、こうやって、見送っていました。壁の上から』
「…ベルも?」
『はい。…待つのは、慣れています』
船が、浮き上がった。
東の空は、もう、暗くなりはじめていた。
春まで、あと、三日だった。
機械が止まってから、百五十八日目の夕方だった。
第三十一章 了