海壁

第三十章

チビ

挿絵:チビ

外套の中で、スズメが、小さな声で、数えはじめた。

『…いち』

誰に言われたのでもなかった。

『に。…さん』

ドラグが、戸の前で、動かなかった。グレゴールも。通りに集まった人たちも。雪だけが、降っていた。

『し。…ご』

マーロウは、スズメの頭に、手を置いた。止めなかった。

『ろく』

『…なな』

戸の中で、何かが、鳴いた。

細くて、高い声だった。子猫が鳴くような。

それから、もっと、大きく。

戸の向こうで、赤ん坊が、泣いていた。

通りじゅうから、息が、いっせいに、漏れた。ガスが、雪の上に、尻もちをついた。ニムが、根の酒の瓶を、抱きしめた。

スズメが、マーロウの外套から、顔を出した。

『…なな、で、泣いた』

「ああ」

『数えたから?』

マーロウは、答えなかった。スズメの頭を、もう一度、撫でた。


戸が、開いた。

ヴェスタが、額の汗を、腕で、拭っていた。

『男の子だ。…小さいが、声は、でかい』

ヴェスタは、ドラグを、見上げた。

『入れ。今なら、役に立つ』

ドラグは、戸口を、くぐった。背を、うんと、かがめて。

寝台の上で、ロズリンが、布にくるまれた小さなものを、胸に、抱いていた。髪が、汗で、額に、はりついていた。眼鏡は、していなかった。

ドラグが、寝台の横に、膝をついた。オークの大きな体が、床に、沈みこむように。

『…隊長』

ロズリンが、布の端を、少しだけ、めくった。

小さな顔が、あった。しわくちゃで、赤くて、目を、ぎゅっと、閉じていた。

ドラグは、何も、言えなかった。

大きな指を、一本、そっと、伸ばした。赤ん坊の手のひらに、触れた。

小さな手が、その指を、つかんだ。

ドラグの肩が、揺れた。

『名前を、呼んであげてください』

ロズリンが、言った。

『二人で、決めた名前を』

ドラグは、しばらく、黙っていた。

それから、かすれた声で、言った。

「…ケイル」

赤ん坊が、ドラグの指を、握ったまま、小さく、口を、動かした。

「ケイル・モーテンセン。…おまえの、伯父の名だ」

ドラグは、指をつかまれたまま、顔を、上げられなかった。

「…チビ」

ロズリンが、笑った。泣きながら、笑った。

『ケイルさんなら、きっと、そう呼びました』


戸口の外で、グレゴールが、雪の上に、片膝をついていた。

ドラグが、戸口から、顔を出した。目が、赤かった。

「グレゴール」

『…隊長の、お名前を』

「兄貴の名だ。…おまえも、呼べ。命をもらったんだろう。あいつに」

グレゴールは、顔を、上げた。

『…ケイル』

小さな声だった。

『…ようこそ、ケイル』


昼前、マーロウも、部屋に、入れてもらった。

ロズリンが、赤ん坊を、マーロウに、差し出した。

「…おれが、抱いていいのか」

『抱いてください。…抱っこしてもらう、約束でしたから』

マーロウは、布ごと、受け取った。

軽かった。それでいて、腕の中で、確かに、重かった。

ベルが、マーロウの横に、立っていた。

『…干し草の束より、重いです』

ベルは、赤ん坊の顔を、じっと、見ていた。

『一番が、練習していたとき、私は、水の袋を、足しました。…あのときより、少しだけ、重いです』

「あいつ、下手だったろ。抱くの」

『はい。とても。…でも、毎晩、練習していました』

ロズリンが、寝台の上で、帳面を、開いた。

帝国暦三五〇年、二日目、朝。ケイル・モーテンセン、生まれる。父、ドラグ・モーテンセン。母、ロズリン・ヴェイク。

それから、ロズリンは、筆を止めて、もう一行、書き足した。

抱いた人。ヴェスタ、ウィラ、ドラグ、マーロウ、ベル。…干し草で練習した人、ミラベル・グリム・ケイン。


オスカが、戸口から、覗いていた。入ってこなかった。

マーロウが、赤ん坊を、少しだけ、オスカのほうへ、傾けた。

『…つめたいよ。あたしの手』

オスカが、言った。

「つめたくていい」

オスカは、おそるおそる、開いたままの手を、赤ん坊の前に、出した。

赤ん坊の小さな手が、動いた。オスカの、閉じない金属の指を、一本、つかんだ。

オスカは、動けなくなった。

『…つかまれた』

オスカは、自分の指を、見下ろしていた。

『あたしは、つかめないのに。…つかまれた』

戸口のうしろで、スズメが、ウィラの外套の裾を、握っていた。

ベルが、ふと、顔を上げた。

『…二日目は、私の、誕生日です。昨日、決めました』

ウィラが、ベルを見て、吹きだした。

「ベル、ケイルと、同じ誕生日だ」

『…はい。そう、なりました』

ベルは、少しだけ、口の端を、上げた。一番と、同じ形だった。

機械が止まってから、百二十六日目の昼だった。

第三十章 了