海壁

第二十五章

冬の朝

挿絵:冬の朝

冬が、来た。

海からの風が、冷たくなった。朝、納屋の戸を開けると、息が、白かった。

マーロウは、戸口で、自分の指を、突いた。一滴を、オスカの唇に。

「おはよう、オスカ」

『おはよう』

オスカの横に、スズメが、立っていた。ウィラの古い外套を、袖を三回まくって、着ていた。

「九十六」

『何の、数?』

スズメが、ウィラを、見上げた。ウィラが、布でマーロウの指を拭きながら、答えた。

「ねえちゃんの、続き。…父さんが、毎朝、数えてるの」

スズメは、少し、考えた。

それから、自分の指を、一本ずつ、折りはじめた。

『いち。に。さん。…』

十まで行って、止まった。指が、足りなかった。

スズメは、困った顔で、マーロウを見上げた。

「…足の指でも、使え」

スズメは、真剣な顔で、靴を脱ぎはじめた。ウィラが、吹きだした。


スズメは、どこへでも、オスカについて歩いた。

市場へ。水路へ。壁の根のヨカのところへ。

オスカが開いたままの両手で、ものを挟んで持つのを見て、スズメも、両手のひらで、何でも、挟んだ。杏。椀。ミラの木の腕。

三日目に、ベルと、初めて、話した。

ベルは、杭の列から、戻ってくるところだった。

スズメが、立ち止まった。ベルの顔を、見上げた。

オスカと、同じ顔だった。ミラとも。白い石の下の、ねえちゃんとも。

「…ねえちゃん?」

ベルは、膝を折って、スズメの前に、しゃがんだ。

『二番です。…ベル、と申します』

「ねえちゃんと、同じ顔」

『はい。一番の顔で、作られました。…ですが、一番では、ありません』

ベルは、少しだけ、間を置いた。

『一番に、そう、言われました。ベルは、ベルでいて、と』

スズメは、ベルの顔を、両手のひらで、左右から、挟んだ。

「…ベル」

『はい』

「はい、じゃなくて、うん、って言うんだよ。オスカが、そう言ってた」

ベルは、しばらく、動かなかった。

『…うん』


詰め所の横の、ドラグの部屋では、木の匂いが、していた。

ドラグが、床に座りこんで、大きな手で、小さな揺りかごを、削っていた。オークの手には、小刀が、爪楊枝のように見えた。

ロズリンが、帳面を膝に、椅子に座っていた。外套の前が、すっかり、丸かった。

『隊長。…角は、もう少し、丸く』

「丸い」

『まだ、とがっています』

「…丸くする」

スズメが、戸口から、覗きこんでいた。

ロズリンが、手招きした。

『スズメさん。…ここに、手を』

スズメは、おそるおそる、ロズリンのお腹に、手のひらを、当てた。

しばらく、何も、なかった。

それから、スズメの目が、まんまるに、なった。

「…けった!」

ドラグが、小刀を持ったまま、胸を張った。

「おれに似て、足が強い」

『隊長は、蹴りません』

「蹴る。壁の兵は、蹴る」

ロズリンが、小さく、笑った。ドラグの耳の先が、少しだけ、赤くなっていた。


夕方、マーロウは、白い石の横に、座っていた。

スズメが、ニムの店でもらった干し杏を一つ、石の上に、置いた。毎日、そうしていた。

「毎日、置くのか」

『うん。ねえちゃん、杏、くれたから』

スズメは、マーロウの横に、並んで座った。マーロウの真似をして、背中を、岩につけて。膝を、抱えずに。

『おじさん。ねえちゃんの、名前、なに?』

「ミラベル・グリム・ケイン」

『みら…べる…』

「ミラベル・グリム・ケイン」

『みらべる、ぐりむ…けいん』

スズメは、何度も、口の中で、繰り返した。

それから、指を折って、数えはじめた。

『み、ら、べ、る。…ぐ、り、む。け、い、ん。…十!』

「…数えるな」

『十、あった!』

マーロウは、空を見上げた。

数えるのが、うるさい。ガルドが、左手で、石に刻んだ字だった。

「…おまえのせいだぞ」

マーロウは、石に、言った。

スズメが、首を傾げた。


夜、ベルが、納屋の戸口に、立っていた。

『一〇六番。お伝えします』

「何だ」

『沖の波の間が、夕方から、短くなっています。風も、北から、西へ、回りました。…明日の夜、嵐が、来ます。冬の、最初の』

マーロウは、戸口から、海のほうを、見た。

海は、暗かった。いつもより、波の音が、近かった。

『海は、もう、禁止区の、際まで、来ています。…春に、杭を打ちはじめたころより、高いです』

ベルは、少しだけ、言葉を、切った。

『禁止区の、いちばん南の岩のあたりは、低い、です』

機械が止まってから、百日目の夜だった。

第二十五章 了