第六章
朝の一滴

夜が、明けた。
納屋の戸の隙間から、朝の光が、細く、差しこんだ。
マーロウは、背中を壁につけたまま、座っていた。目は、開いていた。一度も、閉じなかった。
オスカが、干し草の上で、体を起こした。ミラベルの顔の横に、膝をついた。
『おはよう、ミラベル』
返事は、なかった。
オスカは、少し、待った。
それから、立ち上がって、戸口へ行った。毎朝、立っていた場所に、立った。顔を、少しだけ、上へ向けて。
待っていた。
マーロウは、それを、見ていた。
鉤は、剣の横に、あった。手を伸ばせば、届いた。朝の一滴。いつも、ミラベルが、突いた。ちょん、と。一滴を自分に。もう一滴を、オスカに。
手が、動かなかった。
オスカは、何も、言わなかった。ただ、戸口に立って、待っていた。
戸が、開いた。
ウィラだった。目が、赤く、腫れていた。ウィラは、剣の横の鉤を、拾い上げた。
『父さん。…オスカ、まだでしょ』
マーロウは、顔を上げた。
浜から戻って、初めて、ウィラの顔を、まっすぐ、見た。
『あたしが、突く。…ミラベルが、やってたみたいに』
マーロウは、しばらく、黙っていた。
それから、左の人差し指を、差し出した。
ウィラの手が、震えていた。鉤の先が、指の上で、何度も、揺れた。ウィラは、唇を噛んで、突いた。
強すぎた。赤いものが、ぷくりと、大きくふくらんだ。
『ごめ…』
「いい」
ウィラは、マーロウの手を取って、オスカの前へ、持っていった。一滴が、オスカの唇に、落ちた。
『…おはよう、ウィラ』
「おはよう、オスカ」
ウィラは、そう言ってから、干し草の上を、見た。
指の先に、まだ、赤いものが、ふくらんでいた。もう一滴。いつも、ミラベルの唇に、落ちていた一滴だった。
ウィラは、布を出して、それを、そっと、拭き取った。
『…ベルに、持ってく。燃やしてもらう』
布を、畳んで、懐に、しまった。
それから、鉤を握ったまま、立っていた。
「…ウィラ」
『叱って』
ウィラの声が、先に出た。
「叱らない」
『叱ってよ! あたしが、綱、離さなかったから…っ!』
「離せ、と、言った。おれは」
『…うん』
「おまえは、離さなかった。…離してたら、エマは、死んでた」
『エマなんか…っ』
ウィラの声が、そこで、止まった。
『…エマなんかって、言えない。…言えないの。それが、いちばん、やだ』
マーロウは、壁から、背中を離した。
「ゆうべ、一晩、考えた」
『…何を』
「おまえの顔を見たら、何か、言いそうだった。言っちゃいけないことを。…だから、見なかった」
ウィラの肩が、びくりと、震えた。
「一晩、考えて、何も、出てこなかった。…おまえに言うことは、一個も、なかった」
マーロウは、干し草の上の、ミラベルの顔を見た。
「あいつが、叱るなって、言った。…最後に、おれに頼んだのは、それだけだ」
ウィラは、何も、言えなかった。
「あいつの言うことは、いつも、半分しか、聞かなかった。…最後のくらい、全部、聞く」
マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。二十三度目だった。
ウィラの手から、鉤が、落ちた。
ウィラは、マーロウの胸に、ぶつかるように、倒れこんだ。声を上げて、泣いた。マーロウは、その背中を、抱えた。マーロウの肩も、揺れていた。声は、出さなかった。
『…父さんの、心臓、うるさい』
「…悪かったな」
『ミラベル、毎朝、数えてた。…父さんの、心臓』
「…知ってる」
『あたし、数え方、知らない』
「…おれも、知らん」
オスカが、戸口から、二人を見ていた。それから、ミラベルの横に戻って、また、右手を挟んだ。
昼前、戸口に、セラフィナが立っていた。エステルの手を、引いていた。
『明日の朝の、船のことですが』
セラフィナは、包帯の右手を、胸に当てた。
『お出しにならなくても、構いません。帝都の葬いは、八日後です。…陛下は、待ってくださいます』
「今日、こっちの葬いを、する」
マーロウは、言った。
「船の話は、そのあとだ」
セラフィナは、深く、頭を下げた。エステルが、母の外套の陰から、干し草の上を、じっと見ていた。
入れかわりに、ドラグが、来た。うしろに、ガルドと、グロムがいた。
『どこに、埋める』
「お袋の、隣だ。…南の岩の」
ドラグは、頷いた。
グロムが、紙を一枚、差し出した。オークの兵の頭らしい、四角い字だった。
当該の者、ミラベル・グリム・ケイン。帝国暦三四九年、秋、浜にて、街の娘ウィラ・ケインを海から救い、死亡。壁の外は帝国の管轄外であるため、発見場所の近くに埋葬する。副長、グロム・ハルヴァー。
ドラグが、紙を覗きこんだ。
『…リーネのときは、名前が、なかったな』
「今度は、書きました」
『死亡、は、要るのか』
「書類ですから」
グロムは、それだけ言って、紙を、ドラグに渡した。ドラグは、何も言わずに、受け取った。
ガルドが、左手に、木槌と、鉄の細い刻み棒を、提げていた。
『石は、おれが刻む。…左でな』
「頼む」
『何と、刻む』
マーロウは、答えられなかった。
名前の、ほかに。何を。
干し草の上で、ミラベルの口の端が、少しだけ、上がっていた。
機械が止まってから、六十八日目の朝だった。
第六章 了