海壁

第十章

今度は

挿絵:今度は

百倍の重さの下で、オスカの肩が、甲板に、めりこんでいた。

マーロウは、三歩うしろで、膝をついていた。立てなかった。

大きな男が、ゆっくり、歩いてきた。胸の黒い錘に、手を当てたまま。

『剣を、放せ。一番』

「…オスカ」

オスカは、甲板に頬をつけたまま、言った。

「あたしは、オスカ」

男の足が、剣のすぐ横で、止まった。

その男の胸の、黒い錘の縁を、細い光が、横切った。

硝子が、割れた。

中の水と粒が、甲板に、ぶちまけられた。湯気は、立たなかった。オスカには、一滴も、かからなかった。

重さが、消えた。

船室の戸口に、セラフィナが、立っていた。左の指先から、光の糸が、まだ、伸びていた。

『光は、硝子を、通ります。…縁は、硝子ではありません。私が、考えたものですから』

ヴァルターが、その間に、男の膝を、蹴っていた。男が、甲板に、倒れた。ヴァルターが、その背中に、膝を載せた。

「この錘は、昔、おれが下げていたのと、同じ型だ。…重さに頼る者は、重さが消えると、立ち方を忘れる」

オスカが、起き上がった。

兵は、まだ、四人。

オスカは、剣を、挟み直した。柄の頭を、胸に当てた。

「はち」

「きゅう」

ジェロームが、管を、オスカの背中に当てたまま、声を上げずに、泣いていた。

「…じゅう」

十本目の錘が、割れた。

しぶきが、腕にかかった。

しゅっ、と、鳴った。

オスカの手のひらから、剣が、落ちた。

残る一人の錘を、セラフィナの光の糸が、断った。

船が、ふわりと、浮き上がった。十二人ぶんの重さが、全部、消えていた。


オスカは、甲板に、倒れていた。

金属の両腕から、湯気が、細く、立ちのぼっていた。目の光が、薄くなっていた。

マーロウは、這うように、オスカの横へ行った。

砂の上の、朝の光が、頭に浮かんだ。腕の中で、軽くなっていった体。すうっと消えた、金属の目の光。

ジェロームが、オスカの胸に、耳を当てた。

『…熱い。ですが、焼けてはいません』

ジェロームは、顔を上げた。

『まだです』

同じ言葉だった。三日前の朝、浜で聞いたのと。

『今なら、一滴で』

マーロウは、自分の指を、噛み破った。血を、オスカの唇に、落とした。

一滴。

『もう一滴を』

二滴。

オスカの目が、ちかりと、瞬いた。

それから、光が、戻ってきた。ゆっくり。いつもの、明るさまで。

オスカが、マーロウの顔を、見た。

『…おはよう』

「…夕方だ」

マーロウの声が、揺れていた。

「…今度は、間に合った」

オスカは、少しだけ、首を傾げた。

『それ、ミラベルが、言ってたやつ』

「…ああ」

『あたし、十で、止まった。…ちゃんと、数えた』

マーロウは、オスカの頭に、手を置いた。ミラベルと同じ顔が、下から、マーロウを見上げていた。

「おまえら、数えるのが、好きだな」

ジェロームが、眼鏡を外して、目を拭っていた。サイラスが、父の肩に、そっと、手を置いた。

船室の戸口で、エステルが、セラフィナの腰に、しがみついていた。セラフィナは、光の消えた左手で、娘の頭を、何度も、撫でていた。


二隻の船は、東へ、逃げていった。横に着けていた一隻は、グレゴールとロルフが、帆柱の縄を断ち切って、動けなくしていた。そっちの船乗りたちは、両手を上げていた。

大きな男は、縄をかけられて、帆柱の根元に、座らされていた。四十くらい。頭を、短く刈っていた。首が、太かった。

「誰に、言われた」

『十の家の、長たちの、使いに。紙でな』

男は、懐から、紙を出した。封の印は、輪が、十、重なった形だった。

ヴァルターが、それを見て、黙って、頷いた。

紙には、短く、書いてあった。一番を、重さで押さえ、剣を取れ。一〇六番には、構うな。

「…おれには、構うな、か」

『あんたは、帝都へ、自分で来る。だから、放っておけ、と』

「剣を、どうする気だ」

『知らん。錆びない金属を切れる剣だ、としか、聞いてない』

男は、帆柱の向こうのオスカを、顎で指した。

『一番なら、そこに、いるじゃないか。…剣は、取れなかったがな』

「あれは、オスカだ」

マーロウは、言った。

「一番は、死んだ。…三日前に」

男の口が、開いた。しばらく、閉じなかった。

『…あの一番が? 銃を、素手で曲げるっていう、あの?』

マーロウは、答えなかった。


夜、マーロウは、名前のない剣を、膝に載せていた。

錆びない金属を、切れる剣。

「錆びない金属で、できてるのは」

横で、ヴァルターが、腕を組んでいた。

『海壁。都の下の、蓋。…刃の腕』

「本部の中身も、たぶん、そうだ」

『長たちが、そのどれを開けたいのかは、分からん』

マーロウは、剣を、鞘に戻した。

それから、上着の内側の、柔らかくなった紙に、手を当てた。名前だけ残った、貼り紙に。

「…見てたか」

マーロウは、小さく、言った。

「オスカ、十で、止まったぞ。…おまえの真似して、数えてな」

東の空に、星が、いくつも、出ていた。帝都までは、まだ、二晩あった。

機械が止まってから、七十日目の夜だった。

第十章 了