第十三章
名前を読む

夜更け、廊下の灯りが、一つずつ、消えていった。
消えたのではなかった。喪の黒い布を、誰かが、灯りの上に、かぶせていったのだった。
客の間が、真っ暗になった。
「おかあさま…っ」
エステルの声が、震えた。
『ここに、いますよ』
セラフィナが、娘を、胸に抱えた。エステルの手の中で、一の粒の小さな灯りだけが、白く、光っていた。
ヴァルターが、剣を抜いて、戸の横に、立った。
「来たか」
マーロウは、戸口のほうを、向いた。オスカが、剣を挟んで、マーロウの前に、出た。
戸が、外から、蹴り破られた。
廊下に、人が、並んでいた。
二十人ほど。どれも、痩せて、白っぽい、寝間着のような服を着ていた。腰に、小さな袋。
施療所の、服だった。
二十人が、いっせいに、袋から粒を出して、口に入れた。噛んだ。
首筋から、指先へ、白い光の筋が、走った。目が、白く、抜けた。
『噛む兵だ』
ヴァルターが、低く、言った。
『粒を唾でほどいて、力にする。十倍だ。…十分で、中から、焼ける』
「焼ける前に、止める」
一人目が、跳んだ。天井を蹴って、斜めに、落ちてきた。ヴァルターの剣が、それを、横へ弾いた。二人目。三人目。部屋の中の家具が、紙のように、裂けた。
『帝国暦三四七年、夏。港の街。ヨハン・ベック』
声が、した。
部屋の隅で、セドリックが、紙を広げていた。一の粒の灯りに、紙を、かざして。
跳ぼうとしていた兵が、一人、空中で、止まった。
一拍。
マーロウは、鉤で、親指の腹を、突いていた。止まった兵の口に、血の親指を、ねじこんだ。
唾が、粒になった。首筋の光が、消えた。兵は、膝から、崩れた。
『施療所の帳面の、写しです』
セドリックは、紙から、目を上げなかった。
『陛下が施療所を止めた日から、私は、帳面を集めて、写しておりました。ハイトの家の蔵に、戻されずに残された者の名も、ここにあります』
『帝国暦三四八年、春。カルヴァ。アンナ・ロス』
また一人、止まった。マーロウが、口に、親指を入れた。
『帝国暦三四六年、冬。ハルデン。トマス・ヴェル』
セドリックの声は、少しも、揺れなかった。市場で、粒を数えていたときと、同じ声だった。人の顔を見ずに、次、と言っていた声。
今は、その声が、一人ずつ、名前を、呼んでいた。
『三分です』
ジェロームが、窓際で、砂の時計を、握っていた。
サイラスが、崩れた兵の口を、一人ずつ、布で拭いていた。兵の口から、粒が一つずつ、こぼれた。
『血は、一滴も、残させません』
十一人目が止まったとき、廊下の奥から、男が一人、歩いてきた。
若かった。二十五くらい。背が高く、肩が広い。よく仕立てた服を着ていた。施療所の服では、なかった。
男は、手のひらに、粒を、五つ、載せていた。
五つ、まとめて、口に入れた。
目が、白を通りこして、青く、光った。
次の瞬間、ヴァルターが、壁に、叩きつけられていた。見えなかった。男が動いたのも、ヴァルターが飛んだのも。
『名前が…っ』
セドリックの声が、初めて、上ずった。
『この男は、帳面に、ありません。変わった者では、ない。…自分で、噛んでいます』
男が、マーロウの前に、いた。
マーロウの喉を、指が、つかんだ。熱かった。持ち上げられた。足が、床から、離れた。
『五分です!』
ジェロームが、叫んだ。
『五つ噛めば、焼けるのは、もっと早い!』
男の顔が、光の筋で、ひび割れたように、見えていた。
オスカが、剣を挟んで、立っていた。
突けば、男に、届く。けれど、胸を突けば、男は、死ぬ。
オスカは、一つを、選んだ。
男の、床に垂れた、長い上着の裾を、突いた。
切っ先が、上着を貫いて、床の石の継ぎ目に、深々と、刺さった。錆びない金属を切れる剣は、石の継ぎ目にも、まっすぐ、入った。
男の体が、一瞬、引き戻された。
一拍。
ヴァルターが、壁から、跳ね起きていた。男の背中に、肩からぶつかった。男が、床に、倒れた。マーロウの喉から、指が、離れた。
マーロウは、咳きこみながら、男の顔の上に、膝をついた。血の親指を、男の口に、ねじこんだ。
唾が、粒になった。五つぶんの光が、口の中で、消えた。
男の目の青が、ゆっくり、薄くなって、人の目の色に、戻った。
『…選んだな』
ヴァルターが、肩で息をしながら、言った。
「選んだ。…斬らない、とこ」
『あの女は、誰も、斬らなかった。…今度は、分かったか』
「分かった」
オスカは、剣を、床から、抜いた。一滴も、燃やしていなかった。
廊下の二十人は、全部、止まっていた。セドリックが、残りの名前を、読み終えていた。
黒い布が、灯りから、外された。
倒れた男は、縄をかけられて、壁にもたれていた。
「名前は」
マーロウが、訊いた。
男は、答えなかった。
代わりに、セドリックが、男の顔を、じっと見た。今度は、顔を、見た。
『ブルーノ・ハイトです。…ハイトの家の長の、ひとり息子です』
マーロウは、男を、見た。
「親父に、言われたのか」
ブルーノは、床を見たまま、言った。
『…言われてない。持って帰りたかった。剣を』
「持って帰って、どうする」
『父に、渡す。…一度でいいから、よくやった、と、言わせたかった』
ブルーノの声は、小さかった。五つ噛んだ男の声とは、思えなかった。
マーロウは、何も言わなかった。
客の間の隅で、エステルが、セラフィナの胸から、顔を上げた。セラフィナは、娘の髪を、何度も、何度も、撫でていた。
機械が止まってから、七十四日目の夜だった。
第十三章 了