海壁

第三十三章

リーネ

挿絵:リーネ

夜の空を、グリフォンは、西へ、飛んだ。

マーロウは、グレゴールのうしろで、オスカを、胸の前に、抱えていた。オスカは、途中で、眠ってしまった。刃も、眠る。ミラベルも、よく、マーロウの胸の上で、眠った。

星が、たくさん、出ていた。

マーロウは、口の中で、一つの名前を、転がしていた。ずっと前から、考えてあった名前だった。一度も、声に出したことはなかった。

東の空が、白くなりはじめたころ、海壁の街の灯りが、見えた。


グリフォンが、東門の外に、降りた。

マーロウは、オスカを起こして、納屋へ、走った。

納屋の戸口に、ウィラが、立っていた。ベルも。その横に、銀の髪を顎の線で切りそろえた女と、小さな女の子。セラフィナとエステルだった。約束どおり、春に、来ていた。昨日の夕方に、着いたのだと、あとで聞いた。

板壁の前に、スズメが、しゃがんでいた。釘を、握っていた。

六十本の線のうち、斜めの線がないのは、最後の一本だけだった。

スズメが、振り向いた。

『…おじさん』

スズメの目が、まんまるになった。

『帰ってきた! 間に合った!』

「間に合った」

マーロウは、戸口で、指を突いた。一滴を、オスカの唇に。

「おはよう、オスカ」

『おはよう』

「百五十七」

スズメは、板壁に、向き直った。最後の一本に、ゆっくり、斜めの線を、引いた。

『…ぜろ』


昼前、禁止区のいちばん南の岩の前に、みんなが、集まった。

リーネの石。その隣の、白い石。ベルンハルトの灯り。石の上には、スズメが毎日置いてきた干し杏が、一つ。

ドラグと、ケイルを抱いたロズリン。ベル。ミアとミラ。ガス、オット、サム。ニム。ヴェスタ。ガルド。グロム。グレゴールとロルフ。セラフィナとエステル。ニコ。ウィラとオスカ。

スズメは、真ん中に、立っていた。ウィラの古い外套を、袖を三回まくって、着たまま。

マーロウは、スズメの前に、膝をついた。目の高さを、合わせた。

「名前を、やる」

スズメが、息を、止めた。

「リーネ」

マーロウは、言った。

「リーネ・グリム・ケイン」

スズメは、動かなかった。

「リーネは、おれのお袋の名前だ。…また会えてから、十四日しか、一緒にいられなかった。何が好きだったのか、ろくに、訊かなかった」

マーロウは、隣の石を、見た。何も彫っていない、小さな石を。

「グリムは、あいつの名前の、まん中だ。オスカー・グリムって男から、あいつがもらった名前だ。…ケインは、おれのだ」

マーロウは、白い石のほうを、顎で、指した。

「春に拾って、それから名前だ。…あいつと、そう決めた」

スズメは、白い石を、見た。リーネの石を、見た。それから、マーロウを、見た。

『…リーネ』

小さな声だった。

『リーネ・グリム・ケイン』

スズメは、指を、折りはじめた。

『リ、ー、ネ。グ、リ、ム。ケ、イ、ン。…九』

それから、白い石を、見上げた。

『ねえちゃんより、一つ、少ない』

「少なくていい」

『誕生日は?』

「今日だ」

スズメは、いや、リーネは、しばらく、黙っていた。

それから、空を、見上げた。

大きく、息を、吸った。

『あたし、今日、生まれたーっ!』

浜の上の市場のほうへ、声が、飛んでいった。

ニムが、杏の籠を、抱えたまま、顔を、くしゃくしゃにした。

それから、腹の底から、叫び返した。

『うるさいわぁ!』

みんなが、笑った。笑いながら、何人かが、顔を、そむけた。ガスが、鼻を、すすった。ベルの口の端が、一番と同じ形に、上がっていた。


ロズリンが、ケイルをドラグに預けて、帳面を、開いた。

帝国暦三五〇年、春の最初の日。スズメ、名前をもらう。リーネ・グリム・ケイン。誕生日、今日。名付けた人、マーロウ・ケイン。一緒に決めた人、ミラベル・グリム・ケイン。

ウィラが、リーネを、うしろから、抱きしめた。

「あたしの、妹。…今日から、ほんとに」

『ずっと、妹だったよ』

「今日から、名字も、一緒」

エステルが、リーネの前に、来た。一の粒の、小さな硝子の灯りを、両手で、持っていた。

『おめでとう、リーネ』

「…ありがとう、エステル」

マーロウは、リーネの頭に、手を、置いた。

小さな頭だった。砂色の短い髪が、指のあいだで、揺れた。

リーネが、マーロウを、見上げた。

『…おじさん、じゃ、なくなる?』

「好きに呼べ」

リーネは、少し、考えた。

『…じゃあ、まだ、おじさん。慣れたら、変える』

「そうか」

オスカが、リーネの手を、開いたままの両手で、左右から、挟んだ。

「おめでとう、リーネ。…名前、ある」


夜、マーロウは、白い石の横に、座っていた。背中を、岩につけて。膝は、抱えずに。

「…言ったぞ。名前」

波の音が、していた。

「まん中、勝手に、借りた。…文句は、聞かん」

灯りが、曲がった字を、照らしていた。数えるのが、うるさい。

マーロウは、しばらく、黙っていた。

それから、小さく、言った。

「…おまえに、呼ばせたかった」


納屋に戻ると、干し草の上で、リーネが、ウィラとオスカのあいだで、眠っていた。

板壁の六十本の線は、全部、消されていた。

その下に、新しい線が、一本だけ、刻んであった。

横に、下手な字で、何か、書いてあった。リーネが、ウィラに教わりながら、書いたのだろう。

つぎの たんじょうびまで。

マーロウは、しばらく、その一本を、見ていた。

それから、干し草の端に、腰を下ろした。

機械が止まってから、百六十一日目の夜だった。

第三十三章 了