第三十二章
隣の谷

一日半の空の旅のあと、灰色の船は、夜明け前に、荒れ地の上に出た。
乾いた、赤い土の平野だった。ところどころに、枯れた草の株。その真ん中に、低い土の壁で囲まれた村が、一つ。
村の真ん中に、井戸があった。そのまわりを、荷車が、ぐるりと囲んでいた。荷車の陰に、人の頭が、たくさん、見えた。
荷車の輪の外に、火が、いくつも、焚かれていた。五十人ほどが、弓を手に、座っていた。
「オスカ。…起きてるか」
『起きてる』
マーロウは、指を突いた。一滴を、オスカの唇に。
「おはよう、オスカ」
『おはよう』
「百五十六」
春まで、あと、一日だった。
船が、村の上に、降りはじめたとき、輪の外の男たちが、立ち上がった。
弓を、引いた。矢の先に、濡れた布の袋。
ほどき矢が、空へ、放たれた。船を、狙っていた。
グレゴールとロルフのグリフォンが、船の両側から、飛び出した。グレゴールの剣が、弓の弦を、端から、断っていった。
それでも、三本が、抜けてきた。
オスカが、船の手すりの上に、立っていた。剣は、挟んでいなかった。開いたままの両手だけを、胸の前に、構えていた。
一本目の矢が、飛んできた。オスカは、両の手のひらで、矢の先の袋を、左右から、挟んだ。
しゅっ。
「いち」
袋の中の唾の水が、粒になった。光が、止まった。
二本目。
「に」
三本目。
「…さん」
オスカは、三本の矢を、甲板に、落とした。どれも、燃えなかった。
船が、井戸の輪のすぐ横に、降りた。
マーロウは、剣も持たずに、船から降りた。
荷車の輪と、弓の男たちの、ちょうど真ん中まで、歩いた。
荷車の陰から、年寄りのゴブリンが、杖をついて、顔を出した。村の長だった。その横で、痩せた牛が、鳴いた。アンズだった。
「無事か」
『ケインの子…。井戸は、まだ、無事です』
弓の男たちの中から、女が一人、前に出た。背が高く、頬がこけていた。腕に、布でくるんだ小さな子どもを、抱いていた。
『あんたが、鍵の男か』
「マーロウ・ケインだ」
『隣の谷の、長だ。…谷の井戸は、秋に、涸れた』
女の腕の中の子どもが、かさかさの唇を、動かした。泣く力も、なさそうだった。
『この村の井戸には、水が出る。壺の子のおかげだと、聞いた。…だから、よこせと、言った』
「よこしたら、この村が、干上がる」
『分かってる』
女の声は、低かった。
『分かってて、来た。…ほかに、行くところが、ない』
マーロウは、しばらく、女の顔を、見ていた。
それから、村の長のほうへ、歩いた。荷車の隙間を、くぐった。井戸の縁に、立った。
井戸の底で、水が、光っていた。その真ん中に、丸い、透きとおったものが、沈んでいた。ヨアの子だった。
マーロウは、腰の袋から、一の粒を、一つ、取り出した。
「…見てろ」
井戸の中へ、落とした。
粒は、ヨアの子の中へ、吸いこまれていった。
井戸の水が、ゆっくり、盛り上がった。指一本。二本。手のひら一枚ぶん。
一粒で、桶一杯。
弓の男たちが、ざわめいた。
「粒なら、ある」
マーロウは、井戸の縁から、女を、振り返った。
「海壁の街の、壁の根の棚に、まだ、半分、残ってる。本部が、ためこんだ粒だ。…荒れ地の井戸を、何年も、満たせる」
『…それを、どうやって』
「運ぶ。灰色の船で。…それから、壺の子を、もう一つ、頼む。南の畑に、ヨアという水の生き物がいる。頼めば、分けてくれる」
マーロウは、桶を一つ、井戸から、汲み上げた。
それを、荷車の輪の外まで、運んだ。女の前に、置いた。
「まず、その子に、飲ませろ」
女は、桶を、見下ろしていた。
それから、膝をついた。手で、水をすくった。子どもの唇に、そっと、当てた。
子どもが、水を、飲んだ。一口。二口。
それから、泣いた。
か細い、けれど、ちゃんとした、泣き声だった。
女の肩が、揺れた。女は、子どもを抱いたまま、地面に、額を、つけた。
うしろの男たちが、一人、また一人と、弓を、地面に、置いた。
昼過ぎ、村の長が、マーロウの横に、並んだ。
『スズメは、元気ですか』
「元気だ。…毎朝、板壁の線を、消してる」
『線?』
「春まで、あと、何日か。…明日が、最後の一本だ」
村の長は、しわだらけの顔で、笑った。
『では、今夜のうちに、お帰りにならねば』
マーロウは、灰色の船を、見た。帰りも、一日半かかる。着くのは、春の最初の日の、次の日だった。
グレゴールが、グリフォンの首を撫でながら、言った。
『グリフォンなら、今夜のうちに、発てば、夜明けには、着きます。…三人までは、乗せられます』
マーロウは、オスカを、見た。
オスカは、もう、グリフォンの横に、立っていた。
『帰る。…スズメ、線、消すとこ、見る』
村の長が、アンズの首を、叩いた。
『牛と、私は、船で、あとから参ります。…名前をもらう日に、アンズがおらんと、あの娘が、怒りますので』
日が、傾いていた。
春まで、あと、一日だった。
機械が止まってから、百六十日目の夕方だった。
第三十二章 了