海壁

第十一章

帝都

挿絵:帝都

朝、マーロウは、甲板で、自分の指を突いた。一滴を、オスカの唇に。

「おはよう、オスカ」

『おはよう』

「六十七」

布は、サイラスが、竈へ持っていった。

横に着けていた旗のない船は、朝のうちに、放した。セラフィナが、弓と、割れた錘を、全部、こちらの船に移させてから。

『帰って、伝えなさい。一〇六番は、自分の足で、帝都へ参ります、と』

船乗りたちは、何度も頭を下げて、東へ、先に飛んでいった。

隊長だけは、帆柱の根元に、残した。

『長たちの前で、あの紙を、もう一度、見せていただきます』

セラフィナは、それだけ言った。


昼、甲板で、オスカが、歩きながら、突いていた。

一歩、踏みこむ。柄の頭を、胸に当てる。体ごと、前へ。吊るした麦の袋に、切っ先が、刺さる。抜く。また、一歩。

ヴァルターが、腕を組んで、見ていた。

『十だ』

「…十?」

『おまえが、続けて燃やせるのは、十。だから、突くのも、十だと思え。一つずつ、選べ。…選んだ一つは、外すな』

オスカは、袋を見た。それから、袋のいちばん下の、縫い目を、突いた。袋が、裂けて、麦がこぼれた。

『それでいい』

オスカは、剣を挟んだまま、ヴァルターを見上げた。

「ミラベルと、戦ったこと、ある?」

『一度な。…本気で』

「どっちが、勝った」

ヴァルターは、少し、黙った。

『あの女は、誰も、斬らなかった。…それで、分かるだろう』

オスカは、首を傾げた。分からない顔だった。けれど、もう、訊かなかった。


次の日の夕方、マーロウは、ジェロームの横に、座っていた。

「本部で、錆びない金属の戸は、どこにある」

ジェロームは、眼鏡を外して、拭いた。

『二つです。本部の心臓の部屋と、三番目の刃を作った部屋。…機械が止まった日に、両方とも、閉じました。私も、あれから、入っておりません』

「刃を作った部屋には、何がある」

『刃の作り方が、全部。それから、機械が写した記録が、全部』

ジェロームは、オスカのほうを、見た。

『オスカ殿は、機械が、壁と硝子の板で聞いた一番の毎日を写して、生まれました。その記録も、あの部屋に』

オスカが、剣を挟んだまま、振り向いた。

「…あたしが、生まれたとこ」

マーロウは、しばらく、何も言わなかった。

それから、船の下の、乾いた平野を、見た。


機械が止まってから、七十三日目の昼過ぎ、帝都が、見えた。

乾いた平野の真ん中に、低い丘があった。丘は、まるごと、街に覆われていた。四角い城壁。てっぺんの宮殿。そのまん中から、細く高い塔が、一本、立っていた。

街じゅうの灯りに、黒い布が、かけてあった。

陛下の、喪だった。

エステルが、手すりに、しがみついていた。

『陛下の塔の、いちばん上の灯り。…点いてない』

「毎晩、あそこで、点けてたのか」

『はい。自分で点けて、自分で消していらっしゃいました』

船は、宮殿の中庭へ、ゆっくり、降りた。

石の中庭に、白髪の、背の高い男が、一人で立っていた。グレイだった。海壁の街の前に、三十隻を並べ、陛下の字を読んで、全部、帰した将軍だった。

グレイは、梯子を降りてくる者を、一人ずつ、見た。

マーロウ。オスカ。セラフィナ。エステル。ヴァルター。白い髪の手入れ係と、その息子。

グレイの目が、オスカのところで、止まった。それから、もう一度、船の上を、探した。

『…一番は』

「死んだ」

グレイは、しばらく、動かなかった。

『わしの兵を、一人も、斬らなかった女だ』

低い声だった。

『銃を、曲げただけだった。帰りの船で、兵が、みな、そう言っとった。…一人もだ、と』

グレイは、目を、閉じた。白い髪が、風に揺れた。

「将軍は、長たちの側か」

『わしは、外された。三十隻を、一発も撃ち返さずに帰した将軍は、要らんそうだ』

グレイは、帆柱の根元に縛られた隊長を、見た。

『旗のない船か。…わしに黙って、出したな』


中庭の端から、男が一人、歩いてきた。

痩せて、背が高い。灰色の服に、紙の束を抱えていた。歩きながら、紙に、何か書いていた。

マーロウは、その顔を、覚えていた。

去年、海壁の街の市場に長机を並べ、街じゅうの粒を数えた男。人の顔を見ずに、次、と言いつづけた男だった。

『帝国の書記、セドリック・ヴォルクです』

男は、紙から、目を上げた。薄い青の目だった。

『今は、十の家の、広間の書記をしております。…長たちから、お言伝です。明日の昼、広間で、お会いになる、と』

「あんたが、長たちの使いか」

『使いではありません。書記です』

セドリックは、紙の束を、抱え直した。

『私は、あの街の門で、申し上げました。次に来るのは、紙を読まない人間だ、と』

「覚えてる」

『明日、広間に座っているのは、そういう人間です。…お気をつけて』

セドリックは、それだけ言って、背を向けた。

機械が止まってから、七十三日目の夕方だった。

第十一章 了