第五章
重さ

マーロウは、浜から、動かなかった。
ミラベルを抱いたまま、砂の上に、座っていた。
日が、高くなった。濡れていた浜の草が、乾いた。波が、何度も、寄せては、引いた。
街の者が、浜の上に、並んでいた。誰も、下りてこなかった。
ドラグが、一人で、下りてきた。
大きな影が、マーロウの横に、落ちた。ドラグは、しばらく、何も言わずに、立っていた。
『…運ぶぞ。日が、きつくなる』
ドラグの手が、ミラベルの肩のほうへ、伸びた。
「触るな」
ドラグの手が、止まった。
触らないで、と言うのは、いつも、ミラベルのほうだった。
「…おれが、運ぶ」
マーロウは、立ち上がった。ミラベルの体を、両腕で、抱え上げた。
重かった。
笑うと、跳ねた。怒ると、跳ねた。いつも、どこかへ、跳ねていく体だった。今は、腕の中で、どこへも、行かなかった。
東門の階段を、一段ずつ、上がった。
街の者が、道の両側に、よけた。ガスが、うつむいた。オットとサムも、うつむいた。ニムが、杏の籠を、地面に置いた。壁の兵たちが、黙って、胸に、拳を当てた。エステルが、セラフィナの外套に、顔をうずめていた。
誰も、何も、言わなかった。
納屋の干し草の上に、マーロウは、ミラベルを寝かせた。毎晩、二人で、寝ていた場所だった。
腰の、名前のない剣を、外した。横に、置いた。
それから、マーロウは、ミラベルの横に、座った。
背中を、壁につけて。膝は、抱えずに。
ケインの座り方だった。何かを待つときの、座り方だった。
昼過ぎ、ベルが、井戸の水を汲んだ桶を、提げてきた。
『…一番の顔を、拭いても、いいですか』
マーロウは、頷いた。
ベルは、布を絞って、ミラベルの顔の塩を、拭いた。額。頬。唇。髪に絡んだ砂を、一粒ずつ、指で取った。
同じ顔だった。
『自分の顔を、拭いているみたいです』
ベルは、手を止めた。
『…違いました。一番は、口の端が、少し、上がっています。私の顔は、こうは、なりません』
ベルは、ミラベルの茶色い右目の、瞼を、そっと下ろした。
金属の左目は、閉じなかった。光のないまま、納屋の梁を、見ていた。ベルが、畳んだ布を、その上に載せようとした。
「…いい。そっちは、開けとけ」
『ですが』
「寝るときも、そっちは、開いてた。…片目で、おれを見張ってるんだと。寝てるあいだも」
ベルは、布を、膝の上に戻した。
一番の、濡れた服の懐から、ベルは、畳んだ紙を、一枚、取り出した。海の水を吸って、破れそうに、柔らかくなっていた。
ベルが、そっと、開いた。
ヘルンの港の、貼り紙だった。一〇六番、マーロウ・ケイン。その血、一滴に、牛百頭。
墨は、ほとんど、流れていた。牛百頭、のところは、もう、読めなかった。
『名前のところだけ、残っています。…名前を内側にして、四つに、畳んでありました』
マーロウは、紙を、受け取った。
坊やの名前は、あたしが、壁の上で、覚えてるの。ヘルンの壁から剥がしたとき、ミラベルは、そう言った。
マーロウの手が、震えた。紙を、上着の内側に、しまった。
腰の袋からは、鉤が、一つ、出てきた。朝、マーロウの指を突いた鉤だった。
『鉤は、ここに、置きます』
ベルは、それを、剣の横に、並べた。
オスカは、浜から戻ってから、ずっと、ミラベルの右側に、座っていた。開いたままの両手で、ミラベルの右手を、左右から、挟んでいた。
日が傾くころ、オスカが、ベルのほうを見た。
「ベル。…ミラベル、いつ、おはよう、って、言う?」
ベルは、すぐには、答えなかった。
『…言いません。もう』
「…明日も?」
『明日も、です。その次の日も』
オスカは、ミラベルの顔を、見た。長いこと、見ていた。
「…じゃあ、あたしが、言う。毎朝」
オスカは、挟んだ手を、離さなかった。
ウィラは、一度も、納屋に入らなかった。
戸口の外の壁に、背中をつけて、座っていた。横で、エマが、脚を折って、寝そべっていた。ウィラの右手は、朝から、ずっと、握られたままだった。中に、あの粒があった。
日が沈んだ。
ロズリンが、椀を一つと、毛布を一枚、持ってきた。
『豆の汁です。ヴェスタさんが』
ウィラは、首を振った。
「…父さん、あたしのこと、一回も、見なかった」
ロズリンは、ウィラの横に、ゆっくり、腰を下ろした。お腹に、片手を当てて。
『見られないんだと、思います。…今は』
「あたしが、綱、離さなかったから」
『ミラベルさんは、叱らないで、と言いました』
「叱られたほうが、いい」
ウィラは、膝に、顔を押しつけた。
「叱られたら、終わるもん。…叱られないと、ずっと、終わんない」
ロズリンは、何も言わずに、ウィラの肩に、毛布をかけた。
しばらくして、ロズリンが、言った。
『私も、書けなかったんです。今朝の、続き』
「…浜で、の先?」
『はい。ミラベルさんの名前のあとに、何と書いても、違う気がして』
ロズリンは、自分のお腹に、手を置いた。
『生まれたら、抱っこしてもらう約束でした』
「…干し草で、練習してた」
『水の袋も、足していました。ベルさんが』
ウィラの肩が、揺れた。笑ったのか、泣いたのか、ウィラにも、分からなかった。
エマが、首を伸ばして、ウィラの膝に、顎をのせた。
納屋の中では、小さな灯りが、一つ、点いていた。
マーロウは、ケインの座り方のまま、動かなかった。夜が更けても、その座り方を、崩さなかった。
機械が止まってから、六十七日目の夜だった。
第五章 了