第二十六章
綱

次の日の夕方、空が、低くなった。
海の向こうが、黒かった。風が、西から、まっすぐ、壁に、ぶつかってきた。
ドラグが、壁の上で、声を張った。
「壁の兵! 灯りを、全部、壁の内側へ! 浜には、誰も、下りるな!」
グロムが、槍を横に構えて、東門の階段の下に、立った。
日が沈むと、雨が、横から、来た。
波が、壁の根を、叩いた。どおん、と、壁が、低く、鳴った。一度。また一度。そのたびに、しぶきが、壁の上まで、上がってきた。
納屋では、エマが、落ち着かずに、脚を踏みかえていた。ウィラが、その額に、自分の額を、こつんと当てていた。
「大丈夫。壁だもん。…倒れないよ」
夜更け、ウィラが、干し草の上で、跳ね起きた。
隣が、空だった。
「スズメ?」
ウィラの外套が、なかった。袖を三回まくった、あの外套が。
マーロウが、灯りを、掲げた。オスカが、戸口から、外の雨を、見ていた。
『…杏』
オスカが、言った。
『今日、まだ、置いてないって、言ってた。…嵐だから、明日にしなさいって、ウィラに、言われてた』
ウィラの顔から、血の気が、引いた。
壁の上へ、走った。
雨が、顔を、叩いた。稲妻が、海を、白く、照らした。
禁止区が、なかった。
いつも乾いていた、壁と波打ち際のあいだの砂が、全部、泡立つ海の下にあった。波が、壁の根まで、寄せては、引いていた。
いちばん南に、岩が、一つだけ、黒く、突き出ていた。ベルが、いつも座っている岩。そのまわりを、波が、渦を巻いていた。白い石も、リーネの石も、水の下だった。
岩の上に、小さな影が、しがみついていた。
稲妻が、もう一度、光った。袖を三回まくった、外套だった。
「スズメ!」
ウィラの声は、風に、ちぎれた。
マーロウは、壁の南の端の、階段へ、走った。
オスカが、ついてきた。ベルも。
階段のいちばん下は、もう、水の中だった。
『入れない』
オスカが、言った。唇を、噛んでいた。
『海。…入ったら、ミラベルと、同じになる』
ベルが、その横で、何も言わずに、立っていた。ベルの腕も、同じだった。
マーロウは、上着を、脱いだ。
「おれが行く」
『だめ』
うしろから、ウィラの声がした。
ウィラが、階段を、駆け下りてきていた。肩に、太い綱を、巻いていた。
エマの綱だった。あの朝、ウィラの手に巻きついたまま、浜に上がってきた、綱。
『あたしが、行く』
「だめだ」
『父さんは、綱を持って。父さんが、引っぱって。…あたしより、力、ある。あたしのほうが、軽い』
ウィラは、綱の端を、自分の腰に、ぐるぐると巻いた。結び目を、きつく、締めた。
『ここは、海のそばだから、浴びても、進まない。…三か月、ここにいるって、決めてるもん』
マーロウは、ウィラの顔を、見た。
雨の中で、ウィラは、笑っていなかった。泣いてもいなかった。
「…離すなよ」
『離さない』
ウィラは、言った。
『あたし、離さないの、得意だもん』
ウィラが、水の中へ、入った。
腰まで。胸まで。波が、来た。ウィラの体が、横に、持っていかれかけた。綱が、ぴんと、張った。マーロウが、階段に、足を踏んばった。
うしろから、大きな手が、綱を、つかんだ。ドラグだった。その横に、ガス。オット。サム。グロム。壁の兵たち。
「引くな! まだだ! …あいつが、岩に、着くまでだ!」
ウィラが、泳いでいた。波の合間に、一掻き、また一掻き。
岩に、手が、かかった。
ウィラが、岩の上へ、這い上がった。小さな影を、両腕で、抱えこんだ。
稲妻の中で、ウィラが、こちらに、腕を、振り上げた。
『引け!』
みんなが、引いた。
いちばん大きな波が、来た。
岩が、白い泡の中に、消えた。
綱が、跳ねた。マーロウの手のひらを、焼くように、擦った。それでも、離さなかった。
階段のいちばん上で、オスカが、綱の、濡れていないところを、開いたままの両手で、挟んでいた。
綱は、雨で、どこもかしこも、濡れていた。海の水を、吸っていた。
しゅっ。
『オスカ! 綱が、濡れています!』
ベルの声だった。
「知ってる」
オスカは、挟んだまま、うしろへ、体ごと、倒れた。
しゅっ。
「いち。…に。…十までは、いい」
泡の中から、ウィラの頭が、出てきた。スズメを、胸に、抱えていた。一度も、離していなかった。
みんなが、引いた。引いて、引いて、引いた。
ウィラの足が、階段に、ついた。
ウィラは、階段の上に、スズメを、下ろした。
スズメは、ずぶ濡れで、震えていた。右手を、ぎゅっと、握っていた。
開いた手のひらに、干し杏が、一つ、あった。つぶれていた。
『…置けなかった』
スズメが、泣きだした。
ウィラが、笑った。笑って、泣いた。スズメを、また、抱きしめた。
「明日、置こ。…あたしも、一緒に行く」
マーロウは、ウィラの前に、膝をついた。
ウィラの腰の綱を、ほどいた。結び目は、固かった。指が、震えていた。自分の指だった。
マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。二十四度目だった。
「…よく、離さなかったな」
ウィラの顔が、くしゃくしゃに、なった。
『…うん』
ウィラは、スズメを抱えたまま、マーロウの胸に、額を、押しつけた。
『今度は、あたし、間に合った。…ミラベルに、言える』
「ああ。…間に合った」
オスカが、階段の上で、あお向けに、なっていた。開いた両手を、雨に、さらしていた。
『三つ』
オスカは、空に向かって、言った。
『三つで、止まった。…数えた』
朝、嵐は、去っていた。
海は、禁止区から、引いていた。濡れた砂の上に、海藻と、流木が、散らばっていた。
いちばん南の岩のそばに、白い石と、リーネの石が、並んでいた。どちらも、倒れていなかった。ベルンハルトの灯りも、岩の陰で、硝子の笠をかぶったまま、小さく、点いていた。
井戸の水の瓶だけが、なかった。
スズメは、石の前に、しゃがんで、瓶のあった場所を、見ていた。
『…ねえちゃんが、飲んだ』
それから、つぶれていない干し杏を、一つ、白い石の上に、置いた。
機械が止まってから、百二日目の朝だった。
第二十六章 了