海壁

第八章

剣を挟む

挿絵:剣を挟む

夜明け前、納屋の戸口で、ウィラが、鉤で、マーロウの左の人差し指を、突いた。

今度は、強すぎなかった。

一滴が、オスカの唇に、落ちた。

『おはよう、ウィラ』

「おはよう、オスカ」

もう一滴を、ウィラは、布で拭き取った。それから、鉤を、マーロウの手のひらに、載せた。

『父さんが、持ってて。…船の上で、オスカに、毎朝』

「ああ」

マーロウは、鉤を、腰の袋に、しまった。

それから、小さく、言った。

「…六十五」

『何の、数?』

「ミラベルの、続きだ」

ウィラは、目をこすって、笑った。笑ったまま、鼻をすすった。


東門の外に、帝国の灰色の船が、浮いていた。腹から、白い光が、漏れていた。何万粒もの粒で浮いている船の、腹の灯りだった。

乗るのは、マーロウと、オスカ。セラフィナと、エステルと、ヴァルター。

それから、白い髪の男が、船の梯子の下に、立っていた。ジェロームだった。

『オスカ殿の手入れを、させてください』

ジェロームは、眼鏡を外して、頭を下げた。

『まだです、と言って、間に合わなかったのは、私です。…二度は、言いたくありません』

「サイラスは、どうする」

うしろで、サイラスが、眼鏡を押さえていた。

『父を見張るのは、息子の仕事でございます』

マーロウは、二人を見た。

「…乗れ」

ベルンハルトの軍船は、北のヘルンへ、帰っていくところだった。舳先で、ベルンハルトが、太い腕を一度、上げた。

グレゴールとロルフのグリフォンが、船の両側に、並んでいた。

門の前に、街の者が、集まっていた。

『冬の終わりまでに、帰ってこい』

ドラグが、言った。

「ああ」

『この子が生まれるとき、名前を呼ぶ人は、一人でも多いほうが、いいので』

ロズリンが、外套の前に、手を当てていた。

「…帰ってくる。呼びにな」

ベルが、一歩、前に出た。

『一〇六番。オスカの胸の音の、測り方を、ジェロームに、教えました。…毎朝、測ってください』

船が、ゆっくり、浮き上がった。

壁のいちばん高いところに、ウィラが、立っていた。横に、エマがいた。ウィラは、木彫りの牛を、両手で、高く掲げていた。

下の禁止区のいちばん南に、白い石が、小さく、見えた。


昼、甲板で、オスカが、剣を落とした。

開いたままの両手で、柄を、左右から挟む。振り上げる。振り下ろす。手のひらのあいだから、剣が、すっぽ抜けて、甲板を滑っていく。

それを、朝から、十何回も、繰り返していた。

ヴァルターが、剣を拾って、オスカに返した。短い灰色の髪。鼻の上を横切る、細い傷。右手にだけ、黒い革の手袋。帝国の近衛で、昔は、胸に黒い錘を下げていた男だった。

『握れないなら、振るな』

「…振らないと、斬れない」

『突け』

ヴァルターは、自分の剣を抜いて、切っ先を、まっすぐ、前へ出した。

『振るのは、手首だ。突くのは、体だ。…突きなら、挟んでいれば、足りる。落とす前に、刺さっている』

オスカは、剣を挟み直した。柄の頭を、胸に当てた。体ごと、前へ出た。

切っ先が、帆柱に吊るした麦の袋を、深々と、貫いた。

剣は、落ちなかった。

「…刺さった」

『一度で、覚えたな。…あの女も、そうだった』

ヴァルターは、それだけ言って、剣を鞘に戻した。


午後、ジェロームが、オスカの胸に、細い真鍮の管を当てていた。管の反対側に、耳をつけて。

『お話ししておきます』

「言え」

『オスカ殿の腕は、ミラベル殿の腕と、同じ作りです。生き物を通った水に触れれば、それを、粒にします。粒にしたぶん、胸の中で、燃やします』

ジェロームは、管を外した。

『海なら、止まりません。…ですが、桶一杯より少ない水なら、一度に燃やすのは、一粒ぶんで、済みます』

「何度までなら、いい」

『続けて燃やせば、胸の、燃やす所が、熱くなります。十を超えれば、焼けます。…焼けたら、戻りません』

オスカが、自分の胸を、開いた手の甲で、とん、と叩いた。

「知ってる。…ミラベル、水に、足、つけなかった」


夜、マーロウは、甲板の手すりにもたれて、眠れずにいた。

毎晩、胸に、耳をつけてくる重さが、なかった。

マーロウは、自分の手のひらを、胸に、当ててみた。

うしろで、小さな灯りが、揺れた。エステルだった。一の粒を入れた、小さな硝子の灯りを、両手で持っていた。

『眠れないんですか』

「…まあな」

エステルは、マーロウの横に、並んだ。

『陛下がいなくなった夜、わたしも、眠れませんでした。灯りを消すのが、こわくて』

「今は、どうだ」

『ウィラが、これは、消さなくていい灯りだって』

エステルは、灯りを、少しだけ、持ち上げた。

「…ミラベルは、毎晩、おれの心臓を、聞いてた」

マーロウは、言ってから、自分で、驚いた。

エステルは、しばらく、マーロウの胸を、見ていた。

『…今、聞いても、いいですか』

マーロウは、黙って、少しだけ、屈んだ。

エステルが、小さな耳を、マーロウの胸に、押し当てた。

『動いてます。…ちゃんと』

マーロウは、空を見上げた。星が、にじんでいた。

船室の戸口に、セラフィナが、立っていた。娘を呼び戻さずに、そのまま、戸口に立っていた。


朝、マーロウは、自分で、指を突いた。一滴を、オスカの唇に。

「おはよう、オスカ」

オスカが、目を、ぱちりとさせた。それは、いつも、ミラベルが言っていた言葉だった。

『…おはよう』

「六十六」

マーロウは、布を、サイラスに渡した。サイラスは、それを、船の竈へ持っていった。

昼過ぎ、グレゴールのグリフォンが、前の空から、戻ってきた。

『一〇六番! 前に、船が三隻! 乾いた平野の端に、浮いて、待っています!』

「どこの船だ」

『分かりません。…旗が、ありません』

機械が止まってから、七十日目の昼だった。

第八章 了