海壁

第十四章

陛下の灯り

挿絵:陛下の灯り

朝、マーロウは、自分の指を突いた。一滴を、オスカに。

「七十一」

それから、縄をかけたブルーノの前に、立った。

「帰れ」

ブルーノが、顔を上げた。

「親父に、返す。…剣は、渡さない。そう言え」

セドリックが、ブルーノを、ハイトの家まで、送っていった。戻ってきて、一行だけ、言った。

『長は、門まで、出てきませんでした。…使用人が、受け取りました』


その夜、塔の下の石の部屋に、小さな棺が、置かれていた。

陛下の、棺だった。ミラベルの腰にも届かない背の、ゴブリンの、棺だった。

ヴァルターが、その前に、片膝をついていた。昼から、ずっと、そうしていた。

マーロウは、その横に、腰を下ろした。

しばらく、どちらも、何も言わなかった。

「泣いていいぞ」

マーロウが、言った。

「近衛じゃないなら、泣いていいって。…あいつが、海壁で、そう言ったろ」

『…近衛だ。まだ』

ヴァルターは、棺から、目を離さなかった。

『この棺の前では、まだ、近衛だ』

「じゃあ、あいつの代わりに、言っとく」

マーロウは、棺を、見た。

「…ばあちゃんは、もう、あんたを、叱らない」

ヴァルターの肩が、揺れた。

声は、出なかった。黒い手袋の手の甲に、ぽたり、ぽたりと、落ちるものがあった。

長いこと、そうしていた。

それから、ヴァルターが、言った。

『陛下は、毎晩、塔のいちばん上の灯りを、自分で点けた。三百段を、自分の足で上がって。…最後の年は、おれが、背負った』

「軽かったろ」

『軽かった。…軽すぎて、腹が立った』

ヴァルターは、立ち上がった。

『今夜は、誰も、点けていない』


二人で、三百段を、上がった。

塔のてっぺんに、古い灯りが、一つ、あった。黒い布が、かけてあった。

ヴァルターが、布を、外した。

白い光が、夜の中に、広がった。

下の街で、声が、上がった。黒い布の下の、街じゅうの窓から、人が、塔を、見上げていた。

宮殿の客の間の窓に、小さな白い灯りが、揺れていた。エステルの、一の粒の灯りだった。

『陛下は、自分で点けて、自分で消した。…今夜は、消す人が、いない』

「消さなくていい灯りだ」

マーロウは、塔の縁に、腰を下ろした。背中を、壁につけて。膝は、抱えずに。

高いところが、好きなやつだった。屋根でも、壁でも、いちばん高いところに、上がった。

「…ここ、あいつ、喜んだろうな」

ヴァルターは、答えなかった。黙って、隣に、立っていた。


次の日の昼、宮殿の前の広場で、陛下の葬いが、始まった。

広場は、人で、埋まっていた。何千人。黒い布を、腕に巻いていた。

宮殿の階段の上に、壇があった。十の家の長たちが、並んでいた。まん中に、オズワルド・ハイト。その斜めうしろに、ブルーノが、立っていた。

壇の下の、いちばん前に、エステルがいた。サイラスとジェロームが、その両側に、立っていた。

棺が、壇の前に、置かれた。小さな、棺だった。

セラフィナが、壇に、上がった。包帯の右手を、胸に当てた。

『陛下の名代として、申し上げます。陛下は、最後に、お言葉を、残されました。…それを、ケインの子の口から、お聞きください』

マーロウは、階段を、上がった。オスカが、剣を挟んで、横についた。

何千の顔が、マーロウを、見ていた。

マーロウは、しゃべるのが、うまくなかった。

「ばあちゃんは、言った」

声は、大きくなかった。けれど、広場は、静かだった。

「わたしがいなくなったら、頼みに来るやつがいる。…そのときは、頼まれるな。あの子の血は、あの子のもんだ」

マーロウは、壇の上の、長たちを、見た。

「頼みに来た。おとといな。…だから、頼まれない。おれの血は、おれのもんだ。剣は、オスカのもんだ」

壇の端で、セドリックが、立ち上がった。紙を、二枚、掲げた。

『帝国の書記、セドリック・ヴォルクが、読みます。一枚目は、陛下が亡くなった夜の、広間の帳面の、写しです。長たちが、翌朝、この頁を、破りました』

広場が、ざわめいた。

『二枚目は、長たちだけの話の、控えです。帝国暦三四九年、秋。刃を、百、作る。刃は、ケインの血、一日一滴で動く。一〇六番の血は、今は、求めない』

セドリックは、紙から、顔を上げた。

『今は、と、書いてあります。…私が、書きました』

ざわめきが、どよめきに、変わった。

壇の両脇で、長たちの兵が、銃を、構えた。

広場の端で、白髪の、背の高い男が、前に出た。グレイだった。そのうしろに、兵が、何百と、並んでいた。

『わしは、陛下の字に、従う』

グレイの声が、広場じゅうに、響いた。

『帝国の兵は、ケインの子に、銃を向けるな。…誰の命令でもだ』

兵たちが、いっせいに、銃口を、下げた。

オズワルドの顔から、笑いが、消えた。


そのとき、宮殿の屋根の上に、影が、差した。

旗のない船が、一隻、屋根の向こうから、滑りこんできた。腹の光が、広場に、落ちた。

船から、縄が、何本も、垂れた。

縄を伝って、兵が、降りてきた。壇の下の、いちばん前へ。

『エステル!』

セラフィナが、叫んだ。

サイラスが、エステルの前に、飛び出した。殴り倒された。ジェロームが、エステルの腕をつかんだ。その手を、兵が、剣の柄で、打った。

エステルの体が、兵の腕に、抱えられて、縄ごと、空へ、引き上げられた。

オズワルドが、壇の階段を、駆け上がっていた。肥えた体とは思えない速さだった。屋根から垂れた縄に、しがみついた。縄が、巻き上げられた。

ブルーノが、壇の上に、取り残されていた。父の背中を、見ていた。

オズワルドは、振り向かなかった。

船の舷側から、声が、降ってきた。

『一〇六番! 剣を持って、孤独の大地へ来い! …娘と、取り替える!』

グレゴールのグリフォンが、飛び上がった。船の舷側で、硝子の羽根が、しゅっ、と、鳴った。

「グレゴール! 下がれ!」

グリフォンが、羽根の刃を、ぎりぎりで、かわした。

船は、空へ、上がっていった。

広場に、エステルの一の粒の灯りが、落ちていた。割れずに、白く、光っていた。

セラフィナが、それを、拾い上げた。両手で、包んだ。

「…行く」

マーロウは、オスカを、見た。オスカは、もう、剣を、挟み直していた。

機械が止まってから、七十六日目の昼だった。

第十四章 了