海壁

第十九章

一番の毎日

挿絵:一番の毎日

『坊や。…起きて。朝ごはん』

声は、それだけで、止まった。

硝子の板の光が、少しだけ、暗くなった。

マーロウは、板の前に、立ったままでいた。手を伸ばせば、届いた。伸ばさなかった。

「…もう一回」

声が、かすれた。

「もう一回、言え」

板は、何も、言わなかった。


ジェロームが、縄をかけたユリウスを、連れてきた。サイラスが、そのうしろにいた。

ユリウスは、部屋に入ると、光る板の列を、見上げた。額の血は、止まっていた。

『…戸を切ったとき、仕掛けが、目を覚ましたのです。この部屋は、機械が止まっても、止まっていません』

「なんで、動いてる」

『東の砂の下の海から、管で、水を引いていました。去年の冬に通して、春から引いた管です。東の谷で、その管が閉じられる前に、槽の下の貯め池に、たっぷり、ためてありました。…この部屋だけは、その水で、動きます』

ユリウスは、壁の板を、顎で指した。

『板には、機械が、壁と硝子の板で聞いた、一番の毎日が、入っています。声ごと。…触れた者がいると、一枚ずつ、話します』

マーロウは、さっきの板を、見た。

へたりこんでいた兵が、手をついた跡が、板の縁に、白く、残っていた。

「全部か」

『機械が止まる日までの、全部です。…二百十一年ぶんではありません。壁が、一番の声を聞けるようになってからの分です』

ユリウスは、部屋の奥の、空の硝子の槽を、見た。

『あの槽に、東の水を満たして、板の毎日を、写します。四十日で、刃が、一つ、できます。…オスカ殿は、そうして、できました』

オスカが、槽の前に、立っていた。剣を挟んだまま。

「同じ顔か」

マーロウが、訊いた。

『同じ顔です。同じ声。同じ言葉を、覚えています』

ユリウスは、少し、黙った。

『毎日は、同じです』


マーロウは、壁の板を、一枚ずつ、見ていった。

どの板の縁にも、細い字が、刻んであった。一番。帝国暦三四八年。壁の上。一番。帝国暦三四九年。納屋の戸口。

一枚に、そっと、指で、触れた。

『…好き。大好き。ずっと、好き』

梯子の途中で、叫ばれた声だった。返事は、いらない、と、言われた日の。

隣の板に、触れた。

『下手っ』

鼻が、ぶつかった夜だった。おまえが動くからだろ、と、マーロウは言った。動くよ、うれしいと動くの、と、返された。

その声は、板からは、出てこなかった。マーロウの頭の中で、鳴っていた。

隣。

『坊や。今日の全部、これに使っていい?』

孤独の大地の、中庭だった。窓枠に足をかけて、あの腕へ、跳んでいった日。

もう一枚。いちばん端の、板。一番。帝国暦三四八年。壁の上。

『坊やが、好きだって、言った! 聞いた? ねえ、壁、聞いた?』

笑い声が、続いた。壁の上を、転がり回っている声だった。あたし、粒で動いてるのに、止まる、と、息を切らしていた。

壁は、聞いていた。

二百十年ぶんまとめて好きだ、と、マーロウが言った夜。ミラベルが、壁の上で、転がって、悶えた夜。壁は、全部、聞いて、ここに、しまっていた。

マーロウは、板から、指を離した。

膝が、少し、震えていた。


塔の外の、白い道では、エステルが、セラフィナの外套の端を、握っていた。一の粒の灯りを、胸に抱えて。

「オスカ、まだ?」

『まだ、中です』

「中で、何してるの」

セラフィナは、塔の入口を、見た。

『…たぶん、とても、大事なことを』

ヴァルターが、縄をかけたオズワルドの横に、立っていた。オズワルドは、塔を、見上げていた。ブルーノは、父から、三歩離れて、座っていた。


オスカは、ずっと、槽の前に、立っていた。

『あたしも、ここで、できた』

オスカが、言った。誰にともなく。

『ミラベルの毎日が、あたしの中に、ある。…梯子のことも、鼻のことも、知ってる』

マーロウは、オスカを、見た。

「知ってるのか」

『知ってる。…でも』

オスカは、自分の、開いたままの両手を、見下ろした。

『そのとき、ミラベルが、どう思ってたかは、知らない。…あたしは、見てただけ。壁の中から』

ユリウスが、何か言いかけて、やめた。

ジェロームが、弟子の肩に、手を置いた。何も、言わなかった。

「おまえは、あいつじゃない」

マーロウが、言った。

『うん』

オスカは、頷いた。

『あたしは、オスカ』

マーロウは、しばらく、黙っていた。

それから、空の槽を、見た。

槽の底に、東の水を入れる口が、あった。管が、壁の向こうへ、続いていた。

同じ顔。同じ声。同じ言葉。

梯子の途中の、好き、も。鼻がぶつかった夜の、下手っ、も。窓枠に足をかけた、今日の全部、も。

「ユリウス」

ユリウスが、顔を上げた。

マーロウは、槽から、目を離さなかった。

「…槽に、水を、入れろ」

部屋が、静かになった。

ジェロームが、息を、呑んだ。サイラスの眼鏡の奥の目が、見開かれた。

オスカは、何も、言わなかった。ただ、槽の前から、一歩だけ、横へ、どいた。

機械が止まってから、七十九日目の夕方だった。

第十九章 了