第二十七章
春まで

朝、納屋の戸口で、マーロウは、自分の指を突いた。一滴を、オスカの唇に。
「おはよう、オスカ」
『おはよう』
「百六」
スズメが、納屋の板壁の前に、しゃがんでいた。手に、古い釘を一本、握っていた。
板壁には、短い線が、横に、ずらりと刻んであった。六十本。そのうち、左の八本に、斜めの線が、引いてあった。
スズメは、九本目に、斜めの線を、引いた。
『あと、五十一』
それから、マーロウを、見上げた。
『おじさん。春まで、あと、五十一』
九日前、嵐の日の昼に、スズメは、ベルに訊いた。春の、最初の日は、いつ。ベルは、市場の隅に貼り出された帝国の暦を見てきて、答えた。
『帝国の暦では、春の最初の日まで、六十日です』
その日の夕方から、納屋の板壁に、線が、増えた。
「…数えるのか、毎朝」
『数える。おじさんも、数えてるもん』
マーロウは、何も言わなかった。
板壁の線を、しばらく、見ていた。
その朝、海壁の街に、雪が、降った。
白いものが、灰色の空から、ふわりふわりと、落ちてきた。市場の屋根に。壁の上に。エマの背中に。
『三年ぶりだわ。この街に雪が降るのは』
ニムが、店先で、空を見上げた。
スズメが、市場の真ん中で、立ちつくしていた。口を、ぽかんと、開けて。
荒れ地には、雪が、降らなかった。
『…白い』
スズメは、両手のひらを、空に向けた。雪が、一つ、落ちた。すぐに、溶けた。
『消えた』
オスカが、スズメの横に、並んだ。開いたままの両手を、空へ、差し出した。
「雪は、雨と、同じ。何も通ってない水。…刃に触っても、粒にならない」
雪が、オスカの金属の手のひらに、落ちた。
オスカは、両の手のひらを、そっと、合わせた。挟んだ。
それから、開いた。
小さな水が、光っていた。
「…つかまえた。すぐ、溶けたけど」
『オスカ、どこで、覚えたの』
「北。氷の口のとこ。…ミラベルも、雪、はさんでた。白い、白い、って、大騒ぎして」
スズメは、オスカの真似をして、両手で、雪を、挟んだ。
何度も。何度も。
昼過ぎ、ヘルンの港から来た塩の船が、手紙を、一通、置いていった。
四角い、細い字だった。
帝国暦三四九年、冬。孤独の大地より。板の縁に、名前を、刻んでおります。今日までに、百二十枚。残りは、百六十枚です。ユリウスのほうが、字が、きれいです。サイラスは、毎晩、弁当を持ってまいります。今度は、私が、振り向いて、受け取っております。ジェローム・メレディス。
マーロウは、その手紙を、二度、読んだ。
それから、上着の内側に、しまった。名前だけ残った、ヘルンの貼り紙と、同じ場所に。
夕方、壁の上に、ウィラが、立っていた。
グロムの隣で。槍の代わりに、牛の角で作った、大きな角笛を、首から下げていた。
ドラグが、昼のうちに、渡したものだった。
「一回、長く吹いたら、船。二回、短く吹いたら、火。三回は、海から、何か来た。…壁の兵の決まりだ」
『覚えた』
「おまえは、壁の兵じゃない」
『知ってる。でも、見張りは、できる』
ドラグは、ウィラの顔を、見た。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「…三か月、この街を出られんのだろう。なら、壁の上で、見とけ。いちばん前でな」
ウィラは、角笛を、両手で、握りしめた。
壁の下の、禁止区のいちばん南で、ベルンハルトの灯りが、雪の中に、小さく、点いていた。
日が沈むころ、白い石の前で、スズメが、干し杏を、置いていた。
雪が、石の、曲がった字の溝に、うすく、積もっていた。スズメは、指で、そっと、雪を、払った。
『ねえ。ねえちゃんの、誕生日は、いつ?』
スズメは、振り向いて、ウィラに、訊いた。
ウィラは、少し、考えた。
「新しい年の、最初の日。…自分で、決めたんだよ。作られた日は、誕生日じゃない、って」
『自分で、決めていいの?』
「ミラベルは、決めた」
スズメは、目を、まんまるにした。
それから、マーロウのほうを、振り向いた。
『じゃあ、あたしの誕生日も、決めていい?』
「春だ」
マーロウは、言った。
「名前と、一緒だ」
スズメは、口を、とがらせた。けれど、それ以上は、言わなかった。指を、折りはじめた。
『新しい年まで、あと、…十五』
マーロウは、石を、見た。
あと、十五日で、あいつの、誕生日だった。
機械が止まってから、百十日目の夕方だった。
第二十七章 了