第二十八章
二百十二

この世界の新しい年は、何も起きない。暦の紙が、市場の隅に、一枚、貼り替えられるだけだ。
帝国暦三五〇年の、最初の朝。
マーロウは、まだ暗いうちに、納屋を出た。
手に、小さな椀を一つ、持っていた。井戸の水が、底に、少しだけ入っていた。
禁止区のいちばん南の岩まで、歩いた。リーネの石の前で、ベルンハルトの灯りが、点いていた。その隣に、白い石。
マーロウは、石の前に、しゃがんだ。
左の指を、鉤で、突いた。椀の水の上に、一滴だけ、落とした。
水が、消えた。椀の底に、粒が、一つ、残った。
作りたての、固い粒だった。
マーロウは、布で、指と椀を、拭いた。布は、懐にしまった。あとで、ベルの焚き火に、くべる。
粒を、白い石の上に、置いた。
「…誕生日だろ」
ミラベルは、帝国暦三四九年の一日目を、自分の誕生日に決めた。粒をやると、今日のぶんとは別で、と、目を丸くした。それから、市場じゅうに聞こえる声で、叫んだ。あたし、今日、生まれた、と。
「二百十二だ。…作りたてだぞ。固いやつ、好きだったろ」
海の向こうが、少しずつ、白くなってきた。
朝のうちに、みんなが、石の前に、来た。
ウィラが、エマを連れて。スズメが、干し杏を持って。オスカと、ミラ。ベル。ガスと、オットと、サム。ニムが、杏の籠を、抱えて。
ニムは、石の前に籠を置いて、腰に手を当てた。
『去年の今日、あの娘、店の前で、生まれたーって、叫んだんじゃ。朝っぱらから』
「うるさいわぁ、って、返してたな」
『返したとも。…今年は、誰も、叫ばん』
ニムは、空を、見上げた。
『静かすぎて、かなわんわ』
ベルが、白い石の前に、膝をついた。
『一番の、誕生日です』
それから、少しだけ、黙った。
『…私には、誕生日が、ありません。作られた日なら、本部の台帳に、ありましたが』
スズメが、ベルの袖を、引いた。
「じゃあ、ベルも、決めなよ。ねえちゃんみたいに」
ベルは、スズメを、見た。長いこと、見ていた。
『…では、明日に、します』
「明日?」
『一番の、次の日です。…一番のすぐ後ろが、いいです』
ウィラが、笑った。泣きそうな顔で、笑った。
昼過ぎ、海の上に、船の影が、見えた。
提督の船だった。
船が浜の上に降りきる前に、手すりから、小さな影が、身を乗り出して、叫んでいた。
「ドンが、来る!」
ニコだった。背が、また、少し、伸びていた。
ニコは、梯子を駆け下りて、浜の草の上を、走った。ドンの手の形に生えそろった、あの草の上を。
波打ち際で、ニコは、膝をついた。両手を、海に、つけた。
沖が、盛り上がった。
水の体が、ゆっくり、立ち上がった。光る筋が、体じゅうを、流れていた。
ドンだった。
ドンは、浜の手前まで来て、しゃがむように、低くなった。大きな水の手のひらを、濡れた砂の上に、そっと、置いた。
手のひらのまわりから、草の芽が、いっせいに、出てきた。浜の草の、手の形の、指の先から。さらに、その先へ。
ガスが、浜の上から、転がるように、下りてきた。
『おい!』
ガスは、波打ち際の、ニコの横まで来て、ドンを見上げた。
『草、生えたぞ! こんなに、生えたぞ!』
ガスの声が、裏返っていた。
『三回言う! ありがとうよ! ありがとうよ! …ありがとうよ、この野郎!』
ニコが、ドンの手に、耳を、押し当てていた。
「…聞こえた、って」
ガスは、しばらく、口を、開けたままだった。
それから、ドンの手のひらの横の、生えたばかりの草の上に、どさりと、座りこんだ。
『…言えた。やっと、言えた』
オットとサムが、うしろで、顔を、そむけていた。
提督が、マーロウの前に、来た。
『ニコが、どうしても、年の初めに、ここに来ると言ってな。…ドンが、そう言ったそうだ』
「ドンが」
『草を、生やしに行く。そう、約束していたんだろう』
提督は、禁止区のいちばん南の、白い石のほうを、見た。
『一番のことは、都で、聞いた。…遅くなった』
「いい。来てくれた」
スズメが、ニコの前に、立っていた。ニコを、じっと、見上げていた。
「…海と、しゃべれるの?」
『しゃべれる。ドンと、トンと、コン。…あと、ヨアの子とも、ちょっとだけ』
「すごい」
『すごくない。聞いてるだけ』
スズメは、ニコの手を、両手で、挟んだ。オスカの真似だった。
夜、市場で、火を焚いた。
ニムの杏と、ヴェスタの根の酒。ニコが、ドンの話をして、ガスが、同じ話を、三回した。三回とも、少しずつ、長くなった。
ロズリンは、早めに、ドラグの部屋へ、戻っていった。外套の前が、すっかり、丸かった。
夜更け、ドラグが、市場へ、走ってきた。
あの大きな体が、あれほど慌てて走るのを、マーロウは、初めて見た。
「ヴェスタ!」
ドラグの声が、市場じゅうに、響いた。
「ヴェスタはどこだ! …生まれる! ひと月、早い!」
機械が止まってから、百二十五日目の夜だった。
第二十八章 了