海壁
第十巻の終わり 人物相関図
第十巻の終わり 人物相関図

第一章

浜の草

挿絵:浜の草

グレイの三十隻が去った翌朝、納屋の戸口で、ミラベルが、鉤で、マーロウの左の人差し指を、ちょんと突いた。

一滴を、自分の唇に。もう一滴を、オスカの唇に。

『おはよう、ミラベル』

「おはよう、オスカ」

布は、ベルの焚き火へ。

ミラベルは、くるりと背中を向けた。マーロウは、うしろから、ミラベルを抱いた。

『…六十二』

「また口に出たぞ」

『出るの。勝った次の日は、出るの』


昼、浜は、緑だった。

沖に、光る水の体が、まだ、立っていた。ニコが、波打ち際に座って、ドンに、何か話しかけていた。

『ドン、今夜、帰るって。南へ。草が、思ったより早く、根づいたから』

「そうか」

『日が沈むとき、見送ってほしいって。…それから、ガスさんが、礼を言いに来すぎて、うるさいって』

ニコは、笑った。浜の上のほうで、ガスが、聞こえないふりをしていた。

マーロウは、鼻を鳴らした。

東門の階段を、エマが、駆け下りてきた。綱の先で、ウィラが、半分、引きずられていた。

「エマ! 待って! 止まって!」

うしろから、ミラベルが、綱の端を、片手で、ひょいとつかんだ。エマが、ぴたりと止まった。

『力、強いね、エマ。嬢ちゃんごと、持ってかれる』

「浜の草、見ると、走るの。…毎朝、これになる」

『じゃあ、毎朝、あたしも持つ。綱』

ミラベルは、綱を持ったまま、草の生えたところまで、エマを連れていった。濡れた砂の手前で、止まった。

エマが、草を食べはじめた。一口ずつ、ゆっくり。ウィラが、その横で、エマの首を撫でていた。

草は、浜の北の端から、手のひらを広げた形に、生えそろっていた。その指の先は、底の主が這い出した池のあったあたりへ、まっすぐ、伸びていた。池は、もう、海の下だった。

「…食ったな」

『父さん。エマ、草、食べた。初めての、浜の草』

「見てた」

『母さんが、言ってたんだって。牛は、草を食べてるときが、いちばん、いい顔するって』

ウィラは、エマの横顔を見て、笑った。

「いい顔だ」

ミラベルが、エマの反対側に、しゃがんでいた。

『エマ、おいしい? ドンの草だよ。ガスが生やしたんじゃないよ』

「ミラベル、それ、ガスさんに聞こえる」

『聞こえるように、言ってるの』

浜の上のほうで、ガスが、何か怒鳴った。ミラベルは、手を叩いて、笑った。


昼、詰め所に、セラフィナが来た。エステルの手を引いて。

『陛下の葬いを、十日後に、帝都で、いたします。…ケインの子にも、来ていただきたいのです』

「おれが行って、どうなる」

『十の家の長たちが、集まります。陛下の、頼むな、というお言葉を、陛下と一緒に葬った方々です』

セラフィナは、包帯の手を、胸に当てた。

『その前で、陛下のお言葉を、もう一度、言っていただきたいのです。ケインの子の口で。…血は、ケインの子のものだ、と』

マーロウは、しばらく、黙っていた。

グレイの言葉が、頭に残っていた。鍵がある限り、次が来る。

「…行く。逃げても、次が来る。なら、こっちから、話をつけに行く」

戸口で、ミラベルが、手を挙げた。

『あたしも行く! 帝都、また見たい!』

「遊びに行くんじゃない」

『知ってる。坊やの前に立ちに行くの。…ついでに、ちょっとだけ、見物する』

「…勝手にしろ」

セラフィナが、少しだけ、口の端を上げた。

『三日後の朝、私の船で、発ちます』

ロズリンが、帳面に、書いた。三日後の朝、帝都へ。行く者、一〇六番、一番、オスカ。


ヘルンの軍船は、東門の外に、浮かんでいた。

昼過ぎ、サイラスが、布の包みを一つ抱えて、軍船の甲板へ上がっていった。

ジェロームは、羽根の管の前に、しゃがんでいた。背中を、息子のほうに向けて。

サイラスは、包みを、父のうしろに置いた。

『父さん。…お昼の、弁当でございます』

ジェロームの手が、止まった。

それから、ゆっくり、振り向いた。

包みを見て、息子の顔を見た。

「…ありがとう」

サイラスは、眼鏡を外した。外したまま、父の横に、座った。二人で、包みを開いた。

甲板の下で、ベルンハルトが、見上げていた。何も言わずに、鼻をこすった。

詰め所では、ロズリンが、帳面を開いていた。

帝国暦三四九年、秋。勝った次の日。

その下に、一行。

何も、起きていない。

ロズリンは、筆を置いて、窓の外の浜を見た。緑の上で、ミラベルとウィラが、エマを挟んで、笑っていた。


夕方、日が沈むころ、浜に、街の者が集まった。

沖のドンが、ゆっくり、向きを変えた。南へ。

ガスが、波打ち際の、濡れない線のぎりぎりに、立った。

『ドン! ありがとうよぉ! また来いよ! 今度は、草、もっと生やしに来い!』

ドンの胸のあたりが、ゆっくり、明るくなった。

ニコが、波打ち際の砂を、手のひらで、叩いた。とん、とん。

「またね、ドン。…都で、会おうね。トンと、三人で」

光る水の体が、海の中を、南へ、歩きはじめた。一歩ごとに、低い波が、浜へ寄せては、引いた。

光は、少しずつ、小さくなって、やがて、夜の海に、見えなくなった。

ガスは、見えなくなってからも、しばらく、手を振っていた。


そのあと、マーロウとミラベルは、浜の端の、乾いた岩に座っていた。

ミラベルは、膝を抱えずに座って、足を、波のほうへ投げ出していた。水には、つけなかった。

『坊や。…帝都から帰って、春になったら、拾いに行こ』

「何を」

『赤ちゃん。…荒れ地の村に、親のいない子が、何人かいるって。ニルスが、船の上で、言ってた』

マーロウは、海を見た。

「春になったらな」

『約束?』

「約束だ」

ミラベルは、マーロウの肩に、頭をぶつけるように、もたれた。

『名前は?』

「拾ってからだ」

『ずるい』

「ずるくない。…ちゃんと、考えてある」

ミラベルは、くすくす笑った。

『毎晩、訊くからね。春まで、毎晩。帝都でも』

「訊け」

『帝都の市場、まだ、ある?』

「あるだろ。酸っぱい実もな」

『じゃあ、また、でーとだね』

「葬いに行くんだ」

『葬いの、帰りは、でーと』

ミラベルは、マーロウの腕に、額をこすりつけて、くすくす笑った。

機械が止まってから、六十六日目の夜だった。

第一章 了