
第一章
浜の草

グレイの三十隻が去った翌朝、納屋の戸口で、ミラベルが、鉤で、マーロウの左の人差し指を、ちょんと突いた。
一滴を、自分の唇に。もう一滴を、オスカの唇に。
『おはよう、ミラベル』
「おはよう、オスカ」
布は、ベルの焚き火へ。
ミラベルは、くるりと背中を向けた。マーロウは、うしろから、ミラベルを抱いた。
『…六十二』
「また口に出たぞ」
『出るの。勝った次の日は、出るの』
昼、浜は、緑だった。
沖に、光る水の体が、まだ、立っていた。ニコが、波打ち際に座って、ドンに、何か話しかけていた。
『ドン、今夜、帰るって。南へ。草が、思ったより早く、根づいたから』
「そうか」
『日が沈むとき、見送ってほしいって。…それから、ガスさんが、礼を言いに来すぎて、うるさいって』
ニコは、笑った。浜の上のほうで、ガスが、聞こえないふりをしていた。
マーロウは、鼻を鳴らした。
東門の階段を、エマが、駆け下りてきた。綱の先で、ウィラが、半分、引きずられていた。
「エマ! 待って! 止まって!」
うしろから、ミラベルが、綱の端を、片手で、ひょいとつかんだ。エマが、ぴたりと止まった。
『力、強いね、エマ。嬢ちゃんごと、持ってかれる』
「浜の草、見ると、走るの。…毎朝、これになる」
『じゃあ、毎朝、あたしも持つ。綱』
ミラベルは、綱を持ったまま、草の生えたところまで、エマを連れていった。濡れた砂の手前で、止まった。
エマが、草を食べはじめた。一口ずつ、ゆっくり。ウィラが、その横で、エマの首を撫でていた。
草は、浜の北の端から、手のひらを広げた形に、生えそろっていた。その指の先は、底の主が這い出した池のあったあたりへ、まっすぐ、伸びていた。池は、もう、海の下だった。
「…食ったな」
『父さん。エマ、草、食べた。初めての、浜の草』
「見てた」
『母さんが、言ってたんだって。牛は、草を食べてるときが、いちばん、いい顔するって』
ウィラは、エマの横顔を見て、笑った。
「いい顔だ」
ミラベルが、エマの反対側に、しゃがんでいた。
『エマ、おいしい? ドンの草だよ。ガスが生やしたんじゃないよ』
「ミラベル、それ、ガスさんに聞こえる」
『聞こえるように、言ってるの』
浜の上のほうで、ガスが、何か怒鳴った。ミラベルは、手を叩いて、笑った。
昼、詰め所に、セラフィナが来た。エステルの手を引いて。
『陛下の葬いを、十日後に、帝都で、いたします。…ケインの子にも、来ていただきたいのです』
「おれが行って、どうなる」
『十の家の長たちが、集まります。陛下の、頼むな、というお言葉を、陛下と一緒に葬った方々です』
セラフィナは、包帯の手を、胸に当てた。
『その前で、陛下のお言葉を、もう一度、言っていただきたいのです。ケインの子の口で。…血は、ケインの子のものだ、と』
マーロウは、しばらく、黙っていた。
グレイの言葉が、頭に残っていた。鍵がある限り、次が来る。
「…行く。逃げても、次が来る。なら、こっちから、話をつけに行く」
戸口で、ミラベルが、手を挙げた。
『あたしも行く! 帝都、また見たい!』
「遊びに行くんじゃない」
『知ってる。坊やの前に立ちに行くの。…ついでに、ちょっとだけ、見物する』
「…勝手にしろ」
セラフィナが、少しだけ、口の端を上げた。
『三日後の朝、私の船で、発ちます』
ロズリンが、帳面に、書いた。三日後の朝、帝都へ。行く者、一〇六番、一番、オスカ。
ヘルンの軍船は、東門の外に、浮かんでいた。
昼過ぎ、サイラスが、布の包みを一つ抱えて、軍船の甲板へ上がっていった。
ジェロームは、羽根の管の前に、しゃがんでいた。背中を、息子のほうに向けて。
サイラスは、包みを、父のうしろに置いた。
『父さん。…お昼の、弁当でございます』
ジェロームの手が、止まった。
それから、ゆっくり、振り向いた。
包みを見て、息子の顔を見た。
「…ありがとう」
サイラスは、眼鏡を外した。外したまま、父の横に、座った。二人で、包みを開いた。
甲板の下で、ベルンハルトが、見上げていた。何も言わずに、鼻をこすった。
詰め所では、ロズリンが、帳面を開いていた。
帝国暦三四九年、秋。勝った次の日。
その下に、一行。
何も、起きていない。
ロズリンは、筆を置いて、窓の外の浜を見た。緑の上で、ミラベルとウィラが、エマを挟んで、笑っていた。
夕方、日が沈むころ、浜に、街の者が集まった。
沖のドンが、ゆっくり、向きを変えた。南へ。
ガスが、波打ち際の、濡れない線のぎりぎりに、立った。
『ドン! ありがとうよぉ! また来いよ! 今度は、草、もっと生やしに来い!』
ドンの胸のあたりが、ゆっくり、明るくなった。
ニコが、波打ち際の砂を、手のひらで、叩いた。とん、とん。
「またね、ドン。…都で、会おうね。トンと、三人で」
光る水の体が、海の中を、南へ、歩きはじめた。一歩ごとに、低い波が、浜へ寄せては、引いた。
光は、少しずつ、小さくなって、やがて、夜の海に、見えなくなった。
ガスは、見えなくなってからも、しばらく、手を振っていた。
そのあと、マーロウとミラベルは、浜の端の、乾いた岩に座っていた。
ミラベルは、膝を抱えずに座って、足を、波のほうへ投げ出していた。水には、つけなかった。
『坊や。…帝都から帰って、春になったら、拾いに行こ』
「何を」
『赤ちゃん。…荒れ地の村に、親のいない子が、何人かいるって。ニルスが、船の上で、言ってた』
マーロウは、海を見た。
「春になったらな」
『約束?』
「約束だ」
ミラベルは、マーロウの肩に、頭をぶつけるように、もたれた。
『名前は?』
「拾ってからだ」
『ずるい』
「ずるくない。…ちゃんと、考えてある」
ミラベルは、くすくす笑った。
『毎晩、訊くからね。春まで、毎晩。帝都でも』
「訊け」
『帝都の市場、まだ、ある?』
「あるだろ。酸っぱい実もな」
『じゃあ、また、でーとだね』
「葬いに行くんだ」
『葬いの、帰りは、でーと』
ミラベルは、マーロウの腕に、額をこすりつけて、くすくす笑った。
機械が止まってから、六十六日目の夜だった。
第一章 了