海壁

第二十一章

手

挿絵:手

廊下の白い光が、近づいてきた。

床を這う、金属の音。一本の手が、廊下の角から、現れた。

錆びない金属の、手首から先だけの、手だった。手首から指の先まで、人の背の四倍以上ある。五本の指で、床を掻いて、這っていた。指の先が、白く、光っていた。

そのうしろに、二本目。三本目。

「何を、狙ってる」

『台に、刃を当てた者です』

ユリウスが、言った。声が、かすれていた。

『…オスカ殿を』

一本目の手が、切り抜かれた戸の穴の前で、止まった。穴は、人が一人くぐれるほどの大きさだった。手は、通れなかった。

指先が、穴の縁に、向いた。

白い線が、錆びない金属の壁を、なめた。壁が、赤く、溶けはじめた。

マーロウは、振り返った。

壁の板が、何百枚も、白く光っていた。ミラベルの声を、しまったまま。

手が、ここに入ってきたら。

『あたしが、外へ、行く』

オスカが、言った。剣を、挟んでいた。

『あたしを、追ってくるなら。…外へ、連れてく』

「一人でか」

『一人じゃない。あんたも、来る』

オスカは、溶けかけた壁のほうへ、歩いた。

『ここ、ミラベルの声、いっぱいある。…ここで、戦わない』


オスカが、穴を、くぐった。

手の、指のあいだを、すり抜けた。廊下を、走った。

三十本の手が、いっせいに、向きを変えた。オスカを、追って。

マーロウが、うしろから、走った。ユリウスの叫ぶ声が、聞こえた。

『手のひらの管です! 手も、腕と、同じ作りです!』

塔の廊下を抜けて、中庭へ。

昔、ミラベルが、あの腕を、縦に二つに割った、中庭だった。

中庭には、もう、みんながいた。ヴァルター。グレイの兵、三十。セラフィナと、エステル。グレゴールとロルフのグリフォン。縄をかけられたオズワルドと、その三歩うしろの、ブルーノ。

塔の入口から、オスカが、飛び出してきた。そのうしろから、手が、あふれ出してきた。

一本。五本。十本。

「ヴァルター!」

『数は!』

「三十だ!」

ヴァルターは、中庭を、見回した。それから、オズワルドの船から降ろされた荷の山を、見た。

荷の中に、胸に下げる、丸い錘が、いくつも、転がっていた。裏が、硝子の。

ヴァルターは、その一つを、拾い上げた。

一度、手の中で、重さを、確かめた。それから、首に、かけた。

『…もう、下げないと、決めていた』

ヴァルターは、右手の黒い手袋を、錘に、当てた。

『一度だけだ』

錘が、光った。

中庭の手前に、這い出してきた手が、五本、いっぺんに、石畳に、めりこんだ。指が、動かなくなった。

『百だ。…長くは、もたん』


「オスカ! 管だ!」

オスカは、もう、跳んでいた。

石畳に押さえつけられた手の、手のひらへ。まん中の箱に刺さった、太い管。開いたままの両手で、左右から、挟んだ。体ごと、うしろへ、倒れた。

管が、抜けた。しぶきが、腕に、かかった。

しゅっ。

「いち」

ジェロームが、オスカのうしろに、走ってきていた。真鍮の管を、握っていた。

『昼の三つぶんは、冷めています。…十、あります』

マーロウは、隣の手へ、走った。鉤で、手のひらを、突いた。血の手で、管の、箱に刺さるところを、握った。

水が、粒になって、詰まった。箱の光が、消えた。

一本。

オスカが、二本目の管を、抜いた。

「に」

残りの手が、押さえられた五本を、乗り越えて、這ってきた。指先の線が、中庭を、切った。グレイの兵たちが、転がって、よけた。

グレゴールのグリフォンが、低く、飛んだ。一本の手の指のあいだを、すり抜けて、その注意を、引いた。

『こっちだ! …こっちだ!』

ロルフが、反対側で、同じことを、していた。

セラフィナが、建物の陰に、エステルを抱えて、しゃがんでいた。エステルが、一の粒の灯りを、胸に抱えたまま、目を、ぎゅっと、つぶっていた。


手の群れの端の、三本が、塔の東の建物のほうへ、向きを変えた。

白い服の人たちが、そこにいた。何十人も。建物の窓から、じっと、外を見ていた。逃げてはいなかった。誰にも、逃げろと、言われていなかった。

建物の横に、細い水路が、あった。ヨアの子が、放された、水路だった。

「逃げろ!」

マーロウが、叫んだ。遠かった。

白い服の人たちは、ゆっくり、顔を、マーロウのほうに向けた。けれど、動かなかった。

三本の手の、指先が、白く、光った。

そのとき、中庭の端で、誰かが、荷の山へ、走った。

ブルーノだった。

ブルーノは、ハイトの家の兵の荷から、小さな袋を、引きちぎった。噛む兵の、粒の袋だった。

「ブルーノ!」

縄をかけられたオズワルドが、叫んだ。初めて、息子の名前を、叫んだ。

ブルーノは、振り向かなかった。袋から、粒を、三つ、出した。口に入れた。噛んだ。

首筋から、指先へ、白い光の筋が、走った。目が、青く、光った。

ブルーノが、跳んだ。

三本の手と、白い服の人たちのあいだに、降りた。

一本目の手の、指を、両腕で、抱えこんだ。光る指先を、上へ、ねじ上げた。白い線が、空へ、抜けた。

「やめろ、ブルーノ!」

オズワルドの声が、裏返っていた。

「焼けるぞ! 三つ噛んだら、焼けるんだ!」

ブルーノの腕から、湯気が、立っていた。自分の体の中から、焼けていく湯気だった。

それでも、ブルーノは、手の指を、放さなかった。

機械が止まってから、七十九日目の夜だった。

第二十一章 了