第三十四章
浜の粒

次の日の朝、灰色の船が、東門の外に、降りてきた。
荷台に、痩せた牛が一頭。杖をついた年寄りのゴブリンが一人。
リーネが、納屋から、走っていった。袖を三回まくった外套が、ぱたぱたと、揺れた。
『アンズ!』
アンズが、鼻を鳴らして、リーネの顔を、なめた。リーネは、笑いながら、牛の首に、しがみついた。
「じいちゃん! あたし、名前、もらった! リーネ・グリム・ケイン! 九つ!」
『九つか』
村の長は、杖に、もたれて、目を細めた。
『なら、九倍、呼んでもらえ』
エマが、納屋の横で、アンズを、じっと見ていた。それから、ゆっくり、近づいていった。二頭の牛が、鼻先を、くっつけた。ウィラが、それを見て、吹きだした。
昼前、ベルが、杭の列から、戻ってきた。
いつもより、足が、速かった。
『一〇六番』
「どうした」
『海が、減っています』
マーロウは、振り向いた。
『おとといから、です。おとといは、指の関節、半分。昨日は、一つ。今朝は、一つ半』
ベルは、自分の指を、見下ろした。
『ヨカが海を戻しはじめてから、一度も、減ったことはありませんでした。…嵐の日も』
浜へ、下りた。
ニコが、先に、波打ち際に、しゃがんでいた。ドンの草を見るために、春まで、この街に残っていた。
ニコは、両手を、海に、つけていた。顔が、青かった。
『ドンが、痛いって』
「痛い?」
『海の中で、粒が、生まれてる。…あっちでも、こっちでも。止まらないって。…ドンの体の中でも、生まれてるって』
マーロウは、足もとを、見た。
波打ち際の、濡れた砂が、きらきら、光っていた。
小さな粒だった。米の半分よりも、もっと、小さい。数えきれないほど。波が寄せるたびに、新しいのが、打ち上がってきた。
リーネが、いつの間にか、横に来ていた。しゃがんで、指で、砂をすくった。
『きらきら。…きれい』
マーロウは、一粒、つまみ上げた。
表を見た。裏を見た。
何の印も、打たれていなかった。
その夜、納屋の灯りを、全部、消した。
セラフィナが、真っ暗な中で、小さな椀を、膝の前に、置いていた。椀には、ニコが毎日一口ずつ飲んでいる、深い水が、入っていた。
粒と光の工夫を、帝国で、長いこと、してきた女だった。
『刻印のない粒は、昔の瓦礫からも、出ます。…ですから、確かめます』
セラフィナは、浜の粒を、一つ、深い水の中へ、落とした。
しばらく、何も、見えなかった。
それから、椀の底で、粒のまわりに、細い線が、浮かびあがった。
輪。その内側に、途切れた線。枝分かれして、また、輪に、戻る線。
マーロウは、その模様を、知っていた。本部の壁に、坑の梯子に、ミラベルの金属の左腕に、同じ線が、走っていた。
エリスの血の、結び目の、形だった。
『…この系統の、血で、作られた粒です』
セラフィナの声が、暗がりの中で、静かだった。
『作りたての。…今、この海の中で、作られています』
誰も、何も、言わなかった。
灯りが、点けられた。
ロズリンが、帳面を、めくっていた。ずっと前の頁まで。
それから、手が、止まった。
『…帝国暦三四九年、秋。浜で』
ロズリンは、その一行を、指で、なぞった。
ベルが、言った。
『あの朝、私は、浜へ、走りました。…一番の横の、砂が、赤く、濡れていました』
ベルの声が、少しだけ、揺れた。
『一〇六番が、一番を、抱いて、泣いていたとき。指を噛み破った血が、何度も、砂に、落ちていました。乾いた砂の、波打ち際のすぐ上に。…そのあと、潮が、満ちて、そこまで、届きました』
マーロウは、自分の左手を、見下ろした。
指先に、古い傷が、いくつも、あった。
『この系統の血は、使い切られません。一点でも残れば、海の水から、粒を落としつづけます』
ベルは、続けた。いつもの、平らな声だった。平らにしようとしている声だった。
『海に落ちた血は、ほどけて、散ります。散った一つ一つが、止まらずに、粒を作ります。…散るほど、速くなります』
「…どれくらいで」
『このままなら、三年で、海が、なくなります』
三年で、西の海を、粒にする。昔、本部が、そう言った。十二の家がそろって、機械を止めて、終わったはずの言葉だった。
上着の内側で、板が、重かった。機械が止まった次の日に、ケインの椅子の隙間から出てきた、エリスの板。
あなたの血は、海を粒にします。機械が、なくても。
だから、あなたの血を、誰にも、使わせないで。
誰にも、使わせなかった。自分で、落としただけだった。
マーロウは、椀の底の模様を、見ていた。
「…おれの、血か」
機械が止まってから、百六十二日目の夜だった。
第三十四章 了