海壁

第十八章

手のひらの中

挿絵:手のひらの中

真っ暗だった。

光は、一つだけだった。手のひらのまん中の、箱。白く、脈打っていた。その光が、オスカの顔を、下から、照らしていた。

指が、頭の上から、ゆっくり、押してきた。

膝が、曲がった。背中が、丸くなった。

マーロウは、箱の横に、膝をついた。手首のほうから伸びた管が、箱の口に、刺さっていた。管は、太く、冷たかった。中を、水が、流れていた。

マーロウは、鉤で、自分の手のひらを、突いた。深く。

血の手で、管の、箱に刺さるところを、握った。

手の中で、管の水が、粒に変わっていった。一つ。十。百。粒が、管の中で、ぶつかって、詰まった。

水が、止まった。

箱の脈が、遅くなった。

「オスカ。…管を、抜け」

『抜く』

オスカは、開いたままの両手で、管を、左右から、挟んだ。挟んだまま、体ごと、うしろへ、倒れた。

管が、箱から、抜けた。

残っていた水が、しぶきになって、オスカの腕に、かかった。

しゅっ。

『いち』

しゅっ。

『に』

しゅっ。

『…さん』

箱の光が、すうっと、消えた。

頭の上の指から、力が、抜けた。

指の隙間から、光が、差しこんだ。一本。二本。五本。

空が、見えた。


腕が、止まった。

それから、ゆっくり、傾きはじめた。塔と、反対のほうへ。

「跳べ!」

マーロウは、オスカの腕をつかんで、開いた指のあいだから、外へ、跳んだ。

落ちた。

下から、グリフォンが、突き上げてきた。グレゴールの腕が、マーロウの襟をつかんだ。もう一騎。ロルフが、オスカを、鞍のうしろに、引き上げていた。

塔の半分の高さの腕が、白い道の外の、何もない塩の地面に、倒れた。

地面が、一度、大きく、揺れた。塔の窓が、何十枚も、鳴った。


倒れた腕の肩から、若い男が、這い出してきた。白い服。額から、血を流していた。

ジェロームが、塩の地面を、走っていった。年寄りとは思えない速さで。

ユリウスは、師匠を見上げて、膝をついた。

『…先生』

「手入れというのは、壊れる前に、止まらないようにすることだ」

ジェロームの声は、震えていなかった。

「止まったものを、無理に動かすのは、手入れでは、ない。…教えなかったか」

『教わりました』

ユリウスは、うつむいた。

『止まったものを、放っておけないのも、先生から、教わりました』

ジェロームは、しばらく、黙っていた。

それから、弟子の額の血を、布を巻いた手で、そっと、押さえた。

「…そうか。それは、私が、悪い」

サイラスが、父のうしろに、立っていた。何も言わずに。


白い道の入り口では、オズワルドが、自分の船の光の柱へ、走っていた。

光の柱の中に、ブルーノが、立っていた。

『止まれ、父さん』

「どけ」

オズワルドが、息子の頬を、打った。ブルーノは、よろけなかった。父の手首を、つかんだ。

大きな手だった。

『よくやったって、言わなくていい』

ブルーノの声は、小さかった。けれど、手は、離れなかった。

『言わなくていいから。…止まってくれ』

オズワルドは、息子の顔を、見た。

初めて、まっすぐ、見た。

「…おまえは、昔から、手が、大きかったな」

それだけ言って、オズワルドの肩から、力が、抜けた。

グレイの兵たちが、オズワルドを、囲んだ。ハイトの家の兵たちは、倒れた腕を見て、もう、ほどき矢を、捨てていた。

ブルーノは、父の手首を、放さなかった。兵に縄をかけられるまで、ずっと。


「剣は」

マーロウが、言った。

塔の中へ、走った。オスカが、続いた。

長い廊下。階段。塔の下の、丸い部屋。十二の椅子が、輪になって、並んでいた。暗かった。

その奥の壁に、戸が、あった。錆びない金属の戸。

戸は、四角く、切り抜かれていた。まっすぐな切り口が、光っていた。

切り抜かれた穴の向こうが、明るかった。

穴の手前に、ハイトの家の兵が、一人、へたりこんでいた。名前のない剣が、その横に、転がっていた。

オスカが、剣を、挟んで、拾い上げた。

兵は、穴の向こうを、指さしていた。震える指で。

『…喋った。…あの中で、女が、喋った』

マーロウは、穴を、くぐった。

細長い部屋だった。両側の壁に、硝子の板が、何百枚も、並んでいた。どの板も、白く、光っていた。部屋の奥に、硝子の大きな槽が、一つ。空だった。

オスカが、穴の向こうで、足を止めた。

『…あたしが、生まれたとこ』

そのとき、壁の硝子の板の一枚が、少しだけ、明るくなった。

声が、した。

『坊や。…起きて。朝ごはん』

マーロウは、動けなかった。

ミラベルの、声だった。

機械が止まってから、七十九日目の昼だった。

第十八章 了