海壁

第四章

一粒

挿絵:一粒

「…ミラベル」

マーロウは、ミラベルの顔を、覗きこんだ。

金属の左目は、光っていなかった。

さっき見えた光は、朝の日の光が、磨いた金属に、映っただけだった。

「もう一滴だ」

マーロウは、もう一度、指の血を、ミラベルの唇に、落とした。

何も、起きなかった。

「もう一滴」

何も、起きなかった。

ジェロームが、ミラベルの胸から、耳を離した。

しばらく、何も、言わなかった。

それから、眼鏡を外した。外したまま、マーロウを見た。

『…燃やす所が、焼け切れています。腕を外す前に、もう』

「直せ」

『直せません』

「直せ! あんたは、三十年、手入れしてきたんだろ!」

『機械なら、直せます』

ジェロームの声が、初めて、揺れた。

『焼けたのは、機械の部分ではありません。…この方の、肉の、胸の中です。焼けた肉は、戻りません。どんな手入れでも』

マーロウは、ジェロームの襟を、つかんでいた。

それから、手を、離した。


「…ミラベル」

返事は、なかった。

「ミラベル」

マーロウは、ミラベルの体を、揺すった。首が、かくりと、揺れた。

「おい。…おい。起きろ。朝だぞ。…おはよう、って、言ったろ。今。朝だろ」

何も、返ってこなかった。

「一滴、やったろ。…飲めよ。飲めって。…なあ。飲めって、言ってるだろ…っ」

声が、裏返った。

喉の奥から、音が、漏れた。マーロウが、自分の喉から出るのを、一度も聞いたことのない音だった。

嗚咽だった。

「ミラベル。…ミラベル。ミラベル…っ」

名前を、呼んだ。呼ぶたびに、声が、大きくなった。

「ミラベルっ! ミラベルっ!」

浜に、声が、響いた。海へ。空へ。

「帝都、行くんだろ…! 見物するって、言ったろ…! 春になったら、拾いに行くって、約束したろ…! 毎晩、訊くって、言ったろ…! 名前…、まだ、言ってないだろ…っ! まだ、言ってないんだよ…っ!」

マーロウは、ミラベルを、抱きしめた。骨が鳴るほど。

まだ、あたたかかった。それが、いちばん、だめだった。

「…名前で、呼ぶなよ」

声が、割れた。

「最後に、名前で、呼ぶなよ…っ。それじゃ、もう、行くみたいじゃないか…っ。聞いてない…っ、そんなの、聞いてない…! おれを、置いていくな…っ!」

マーロウは、笑った。泣きながら。笑い声が、途中で崩れて、叫びになった。

「…うそだ。…うそだろ。…うそだって、言え。言えよ、ミラベル…」

マーロウは、子どものように、声を上げて、泣いた。三十年、一度も上げたことのない声で。ミラベルの胸に、顔をうずめて。涙と、鼻水と、指の血で、顔じゅうを汚して。

「ミラベル…。…帰ってこい。…頼む。…頼むから…。ミラベル…」

オスカが、横に、膝をついていた。開いたままの両手で、ミラベルの右手を、左右から、そっと挟んでいた。握れない手で。

『…ミラベル。…はさめる、よ。…ほら』

ミラベルの手は、挟まれたまま、動かなかった。


ベルが、浜を、走ってきた。

砂の上を見て、止まった。

ベルは、しばらく、動かなかった。それから、ミラベルの横に、しゃがんだ。

同じ顔だった。

ベルは、砂の上に落ちた、金属の左腕に、手を当てた。まだ、少し、温かかった。

『…竈に、海を、くべたんです』

ベルの声が、震えていた。

『一番の体は、安い薪で、二百十一年、焚いてきた竈です。…だから、水には、足も、つけなかった。いつも』

ベルの声が、止まった。

『胸の、内側が。…測れません』


砂の上の、金属の左腕の、手が、握られていた。

ウィラが、その指を、一本ずつ、そっと開いた。

手のひらに、粒が一つ、載っていた。

燃やしきれなかった、最後の一粒だった。

ウィラは、それを、つまみ上げた。朝の光に、かざした。

表を見た。裏を見た。

何も、なかった。

牛一頭とも、羊二頭とも。何を消したのかを示す印が、どこにも、打たれていなかった。

『…何も、書いてない』

ウィラの声が、震えていた。

『ミラベルと、引き換えなのに。…ミラベル一人って、どこにも、書いてない』

ウィラは、粒を、握りしめた。

『うちの牛には、名前が、あったのに…!』

叫んでいた。泣きながら、怒っていた。

『あたしが、綱を、離さなかったから…っ。あたしが…っ』

マーロウは、ミラベルを抱いたまま、顔を上げなかった。

何か、言った。

ウィラは、耳を寄せた。

「…ミラベル・グリム・ケイン」

かすれた声だった。

「…おれが、壁の上で、一字ずつ、書いた。…名前だ」

誰も、何も、言えなかった。

東門のほうから、ロズリンが、走ってきていた。帳面を、胸に抱えて。

ロズリンは、帳面を開いた。震える手で、一行、書いた。

帝国暦三四九年、秋。浜で。

その先が、書けなかった。

機械が止まってから、六十七日目の朝だった。

第四章 了