第二十二章
よくやった

オスカが、中庭を、横切って、走っていた。
ブルーノのほうへ。
ブルーノの横の、二本目の手の指先が、白い服の人たちの窓へ、向いていた。オスカは、その手のひらへ、跳んだ。管を、挟んだ。倒れた。
しゅっ。
「さん」
三本目の手。指が、オスカを、払いのけようとした。オスカは、指の下を、くぐった。手のひらへ。管。
しゅっ。
「し」
ブルーノが抱えこんでいた一本目の手が、ブルーノごと、指を振り上げた。ブルーノの体が、宙に、浮いた。それでも、ブルーノは、指を、放さなかった。
マーロウが、その手のひらに、飛びついた。血の手で、管を、握った。
水が、粒になって、詰まった。
指から、力が、抜けた。
ブルーノが、石畳に、落ちた。
ブルーノの体は、光っていた。首筋から、指先まで、白い筋が、焼けつくように、脈打っていた。腕から、湯気が、止まらなかった。
マーロウは、ブルーノの顔の上に、膝をついた。血の親指を、口に、ねじこんだ。
二度目だった。五日前の夜にも、帝都で、同じ口に、同じ指を、入れた。
唾が、粒になった。三つぶんの光が、口の中で、消えた。
ブルーノの目の青が、薄くなった。人の目の色に、戻った。
縄をかけられたオズワルドが、兵の腕を振りほどいて、転がるように、走ってきた。息子の横に、膝をついた。縄のかかった手で、息子の顔に、触れようとして、触れられずにいた。
「…生きてる」
マーロウは、言った。
「腕は、焼けてる。…でも、生きてる」
残りの手が、まだ、二十本あまり、中庭を、這っていた。
どれも、オスカのほうへ、向きを変えていた。
ヴァルターが最初に押さえた五本も、重さがゆるむと、指を掻いて、その列に加わった。
「グレゴール! オスカを、上へ!」
グレゴールのグリフォンが、降りてきた。オスカが、鞍のうしろに、跳び乗った。
「真ん中だ! 中庭の真ん中で、低く、飛べ!」
グリフォンが、中庭のまん中に、低く、浮いた。オスカを乗せて。
二十四本の手が、いっせいに、そこへ、集まってきた。指を伸ばして、オスカに、届こうとして。手と手が、ぶつかり合って、重なって、一つの山になった。
「ヴァルター!」
ヴァルターは、中庭の端で、片膝をついていた。胸の錘に、手袋の右手を、当てたまま。鼻から、血が、垂れていた。
『…全部、真ん中か』
「全部だ」
ヴァルターは、錘を、握りしめた。
錘が、今までで、いちばん強く、光った。
中庭のまん中の、手の山が、石畳ごと、沈んだ。石が、割れた。二十四本の手が、一つも、指を、動かせなくなった。
ヴァルターの膝が、石畳に、めりこんだ。腕が、震えた。
『…陛下を、背負って、三百段を、上がった背中だ』
ヴァルターの声は、途切れ途切れだった。
『これくらい、…もつ』
マーロウは、手の山に、登った。
鉤で、手のひらを、もう一度、深く、突いた。
一本目の手のひらの、管を、握った。水が、粒になった。
「一つ」
隣の手のひらへ、跳んだ。
「二つ」
うしろから、サイラスが、ついてきていた。布を、両手に持って。マーロウの手から落ちかける血を、一滴ずつ、受けていた。
『一滴も、落とさせません』
「三つ。…四つ」
頭が、少し、ふらついた。血が、減っていた。
「五つ。六つ」
グリフォンの上から、オスカが、見下ろしていた。
『…数えてる』
マーロウは、答えなかった。数えつづけた。
「十一。十二」
手のひらから、手のひらへ。
「二十二。二十三」
最後の一本の、管を、握った。
「…二十四」
箱の光が、消えた。
中庭じゅうの、指先の光が、一つ残らず、消えていた。
ヴァルターが、錘から、手を離した。そのまま、石畳に、仰向けに、倒れた。胸の錘を、首から、外して、横に、放り出した。
『…もう、下げん』
東の空が、白くなっていた。
ブルーノが、目を、開けた。
焼けた両腕に、ヴェスタがいれば、根の薬を塗っただろう。今は、セラフィナが、自分の外套を裂いて、巻いていた。
ブルーノの横に、オズワルドが、膝をついたままでいた。一晩じゅう、そうしていた。
ブルーノは、父の顔を、見た。
オズワルドは、何か言おうとして、口を、開けた。閉じた。また、開けた。
「…よく」
声が、かすれていた。
「…よく、やった」
ブルーノの目から、涙が、あふれた。焼けた腕で、顔を覆おうとして、覆えなかった。
オズワルドは、縄のかかった両手で、息子の頭を、不器用に、抱えた。
笑うと目がなくなる顔が、笑っていなかった。泣いていた。
朝、ジェロームが、マーロウの前に、立った。ユリウスが、うしろにいた。
『私と、ユリウスは、ここに、残ります』
「残って、どうする」
『あの部屋を、閉じたまま、手入れします。…板が、声を、しまっておけるように』
ジェロームは、少し、間を置いた。
『手の管は、全部、外して、炉で焼きます。血が、一滴も、残らないように。…それから、板の縁に、一枚ずつ、名前を、刻みます。一番、の横に。…ミラベル・グリム・ケイン、と』
「何百枚あると思ってる」
『手入れ係は、根気だけは、ございます』
マーロウは、しばらく、黙っていた。
それから、言った。
「…頼む」
機械が止まってから、八十日目の朝だった。
第二十二章 了