海壁

第十六章

白い道

挿絵:白い道

朝、マーロウは、甲板で、指を突いた。一滴を、オスカの唇に。

「おはよう、オスカ」

『おはよう』

「七十三」

それから、ジェロームのところへ、行った。

「ユリウスが、孤独の大地で、何を動かせる」

ジェロームは、布を巻いた手を、膝に載せていた。

『腕です』

「腕」

『海壁の中に通すはずだった、腕の部品が、塔の倉に、残っておりました。三本ぶん。…一本は、機械が、昔、組み上げました。ミラベル殿が、それを、割りました』

ヴァルターが、顔を上げた。

『あの女が、一人でか』

「はい。縦に、二つに。私は、塔の窓から、見ておりました」

ジェロームは、少しだけ、目を閉じた。

『ユリウスなら、残りの部品で、もう一本、組めます。機械が止まっていても、人が、肩の中に入れば、動かせます。…あの子は、手先の器用な子でした』

「弱いところは」

『手のひらに、粒の箱と、水の管があります。管を抜けば、粒は、ほどけません。ほどけなければ、腕は、力を失います。指先の光も、消えます』

ジェロームは、言葉を、切った。

『ただ、指先の光の線は、石を、溶かします。近づく前に、溶かされます』

オスカが、剣を挟んだまま、黙って、聞いていた。

「ミラベル、一人で、割った」

オスカが、言った。

「…あたしは、割れない」

『割らなくていい』

ヴァルターが、言った。

『止めればいい。管を、一本、抜けばいい』


次の日の昼、グレゴールとロルフのグリフォンが、先に、飛んでいった。グリフォンのほうが、船より、ずっと速い。

夜になって、二騎が、戻ってきた。

『白い道の入り口に、船が三隻。旗は、ありません』

グレゴールは、鞍から降りて、息を整えた。

『塔の横に、腕が、立っています。…もう、動いています。指を、握ったり、開いたりしていました』

「エステルは」

セラフィナが、訊いた。

『夕方、大きい船の甲板に、出されていました。…灯りは、持っていませんでした』

セラフィナは、手の中の小さな灯りを、握りしめた。

『白い服の人たちが、荷を、運ばされていました。何も言わずに。…言われたことを、しています』

ロルフが、唇を、噛んでいた。

『並べ、と、言われて、並んでいました』


その夜、マーロウは、甲板で、前の空を、見ていた。

孤独の大地には、前にも、来たことがあった。

最後に来たのは、機械を止めた日だった。暗くなった塔の下の部屋で、ミラベルは、マーロウを両腕で抱え上げて、ぐるぐる回った。止まった、止まった、と、叫びながら。

横に、オスカが、座った。

『ミラベル、あそこで、あんたのこと、ぐるぐる、回した』

「見てたのか」

『見てた。…ずっと、回してた』

「下ろせって、言ったのにな」

マーロウは、少しだけ、笑った。笑ったのは、浜の朝から、初めてだった。

オスカは、それを、じっと見ていた。

『今、笑った』

「…笑ってない」

『笑った。ミラベルに、言う。…石に』


機械が止まってから、七十九日目の朝、船は、孤独の大地に、着いた。

「七十五」

白い道が、東へ、まっすぐ、伸びていた。両側に、白い建物の群れ。その奥に、塔。

塔の横に、腕が、立っていた。

錆びない金属の、巨大な腕だった。肘を地面について、手を、空へ向けていた。肩から指の先まで、塔の半分ほどの高さ。骨と筋が、剥き出しだった。

五本の指が、ゆっくり、握られ、開かれた。

白い道の入り口に、旗のない船が、三隻、浮いていた。その下の道の上に、オズワルドが、立っていた。兵が、二十人ほど。

兵の一人が、小さな女の子の腕を、つかんでいた。

エステルだった。

船から、光の柱で、降りた。マーロウ。オスカ。セラフィナ。ヴァルター。ブルーノ。グレイの兵、三十。

『剣を』

オズワルドが、言った。笑っていた。目が、なくなっていた。

『そこに、置いていただきたい。娘は、それから、お返しします』

「…オスカ」

マーロウが、言いかけた。

オスカは、もう、歩き出していた。剣を、両の手のひらで、挟んで。

『あたしが、渡す』

「オスカ」

『前に、立つって、こういうこと』

オスカは、振り向かなかった。

『エステル、暗いの、こわいから。…早く、返してあげる』

オスカは、白い道の真ん中まで、歩いた。オズワルドの、十歩手前で、止まった。

剣を、道の上に、そっと、置いた。

それから、うしろへ、下がった。

兵が、エステルの腕を、放した。

エステルが、走った。オスカの横を、すり抜けて。白い道を、まっすぐ。

セラフィナが、膝をついて、両腕を、広げていた。

エステルが、その胸に、飛びこんだ。

「おかあさま…っ」

セラフィナは、何も言えなかった。娘の手に、一の粒の灯りを、握らせた。それから、娘ごと、灯りを、抱きしめた。

オズワルドの兵が、剣を、拾い上げた。布で包んで、塔のほうへ、走っていった。

オズワルドは、それを見送って、満足そうに、頷いた。

それから、塔の横の腕を、見上げた。

『ユリウス』

腕の、五本の指先が、白く、光った。

機械が止まってから、七十九日目の朝だった。

第十六章 了