海壁

第二十九章

雪の夜

挿絵:雪の夜

雪が、また、降りはじめていた。

ドラグの部屋の前の通りに、人が、集まっていた。灯りを持って。外套の襟を、立てて。

ヴェスタが、根の酒の瓶を、ニムに押しつけて、部屋の中へ、入っていった。

『湯を、沸かせ。桶に、三つ。布は、あるだけ持ってこい』

戸口で、振り向いた。

『男は、入るな。…隊長、おまえもだ』

「おれの子だ」

『おまえの子だから、入るなと言っとる。四十年で、父親が役に立ったためしは、一度もない』

戸が、閉まった。

ドラグは、戸の前に、立ちつくしていた。

それから、戸の前を、行ったり来たり、しはじめた。雪の上に、大きな足跡が、何往復も、ついていった。


ウィラが、湯の桶を、抱えて、走ってきた。ヴェスタに、呼ばれていた。

『ウィラ。…おまえは、入れ。手が、要る』

ウィラは、ドラグの横を、すり抜けながら、言った。

『大丈夫。ロズリン、強いもん』

戸が、また、閉まった。

しばらくして、戸の向こうから、ロズリンの声が、した。

『…隊長』

ドラグが、戸に、張りついた。

「なんだ。どうした」

『外の、足音が、聞こえます。…ずっと、同じ間隔で』

「…止まるか」

『止まらないでください。数えていると、少し、楽です』

ドラグは、戸から離れた。それから、また、歩きだした。さっきより、ゆっくり。同じ間隔で。

グレゴールが、ドラグの横に、来た。昔は共和国の議会の近衛長で、今は海壁の空の番をしている男。何も言わずに、ドラグと並んで、歩きはじめた。一往復。二往復。

「…何のつもりだ」

『隊長が、歩いておられるので』

「おれは、歩きたくて、歩いとるんじゃない」

『存じております』

グレゴールは、並んで、歩きつづけた。

『ケイル隊長も、そうでした。…大事な戦の前の晩は、ずっと、歩いておられました。私は、うしろを、ついて歩きました。朝まで』

ドラグの足が、少しだけ、ゆっくりになった。

「…兄貴も、か」

『はい。止まったら、負ける気がする、と、おっしゃって』

ドラグは、何も言わなかった。けれど、二人の足跡は、それから、朝まで、並んでいた。


マーロウは、向かいの軒下に、座っていた。背中を、壁につけて。膝は、抱えずに。

横に、スズメと、オスカが、並んで座っていた。スズメは、ウィラの古い外套に、くるまっていた。

スズメは、ドラグの足を、見ていた。

『…いち。に。さん』

「何を、数えてる」

『隊長さんの、行ったり、来たり』

「数えるな」

『だって、何か、してないと、こわい』

マーロウは、少し、黙った。

それから、自分の外套の前を、開けた。

「入れ」

スズメが、マーロウの外套の中に、もぐりこんだ。小さな体が、マーロウの胸に、くっついた。

『…おじさんの、心臓、うるさい』

「…悪かったな」

『ねえちゃんも、そう言ってた?』

マーロウは、雪の降る空を、見た。

「…言ってた。毎朝な」

オスカが、反対側から、開いたままの手を、そっと、マーロウの膝に、置いた。


夜が、深くなった。

戸の中から、ときどき、ヴェスタの低い声が、した。ロズリンの、短い息。ウィラが、何か、言っていた。

一度、戸が細く開いて、ウィラが、顔を出した。

『帳面、持ってきてって。ロズリンが』

「今か」

『今。…書きたいんだって』

ミアが、走って、ロズリンの帳面を、持ってきた。

しばらくして、ウィラが、また顔を出して、小さな声で、言った。

『書いた。…帝国暦三五〇年、一日目、夜。雪。…それだけ』

ドラグが、雪の中で、少しだけ、笑った。泣きそうな顔だった。


東の空が、白くなりかけたころ。

戸の中で、ロズリンの声が、ひときわ、長く、続いた。

それから、途切れた。

静かになった。

雪の音しか、しなかった。

ドラグが、戸の前で、止まった。グレゴールも、止まった。

マーロウは、立ち上がっていた。スズメが、外套の中で、マーロウの服を、ぎゅっと、握っていた。

戸の中から、ヴェスタの声が、した。

『…ほら。…ほら、息をせい』

ウィラの声。

『泣いて。…ねえ、泣いてよ』

泣き声は、しなかった。

機械が止まってから、百二十六日目の、夜明けだった。

第二十九章 了