海壁

第三章

間に合った

挿絵:間に合った

湯気の柱が、海の上に、立っていた。

マーロウは、波打ち際で、立ち止まっていた。

一つ。二つ。三つ。

湯気の根元の水が、割れた。

ミラベルが、出てきた。ウィラを、右腕に、抱えていた。ウィラの手には、まだ、エマの綱が、巻きついていた。

ミラベルは、水を掻いた。湯気を引きずりながら、まっすぐ、浜へ。

綱の先で、エマが、首を水から出して、必死に、脚を動かしていた。

ミラベルは、浅いところで、ウィラを、マーロウの腕に、押しつけた。

マーロウが、ウィラを、砂の上へ、引きずり上げた。ウィラが、海の水を吐いて、咳きこんだ。目を、開けた。

『…父さん』

「しゃべるな。…息、しろ。ここは海のそばだ。浴びても、進まない」

エマが、浅瀬に脚をついて、よろよろと、浜へ上がってきた。

マーロウは、振り返った。

ミラベルが、浅瀬に、膝をついていた。金属の左腕は、海に浸かったまま、白く、光っていた。そこから、湯気が、絶え間なく、噴き上がっていた。

「上がれ!」

マーロウは、海に、踏みこんだ。ミラベルの右腕をつかんで、引き上げた。熱かった。手のひらが、焼けるほど、熱かった。離さなかった。

ミラベルの体を、乾いた砂の上まで、引きずり上げた。

左腕が、海から、離れた。それでも、湯気は、止まらなかった。継ぎ目という継ぎ目から、細かい粒が、ぽろぽろと、こぼれていた。こぼれた端から、光って、消えていった。


ミラベルは、砂の上で、マーロウの腕の中にいた。

『…海に、入っちゃった』

「ミラベル」

『腕が、海を、粒にして。…体の中で、燃やしてる。…まだ、止まらない。…あつい』

マーロウの腕の中で、ミラベルの肉の体が、内側から、焼けるように、熱かった。

ミラベルは、マーロウの顔を、見上げた。茶色い右目で。瞬きをしない、金属の左目で。

それから、分かった顔を、した。

『…これ、だめなやつだ』

「しゃべるな」

『しゃべる。…今、しゃべらないと、もう、しゃべれない』

ミラベルは、右手を、上げた。肉の手で、マーロウの頬に、触れた。

『嬢ちゃん、無事?』

「無事だ」

ウィラが、エマの首にしがみついて、泣いていた。

『…よかった。あたし、今度は、間に合った』

「ああ。…間に合った」

『嬢ちゃんを、叱らないで。…嬢ちゃんは、エマを、離さなかったの。…今度は』

「…ああ」

『一番強いから、ね』

ミラベルは、笑った。

それから、少しだけ、真顔になった。

『…マーロウ』

マーロウの息が、止まった。

坊や、ではなかった。

『ずっと、坊やって、呼んでた。…名前は、しまっといたの。大事なものは、しまっとくでしょ』

ミラベルの声が、細くなっていった。

『でも、名前は、呼ばれるためにある。…嬢ちゃんが、そう言ってた。だから、最後は、ちゃんと、呼ぶの』

ミラベルの手が、マーロウの頬から、すべり落ちそうになった。マーロウが、その手を、自分の頬に、押しつけた。

『おはよう。…マーロウ・ケイン』

金属の目の光が、すうっと、消えた。

ミラベルの体から、力が、抜けた。

けれど、左腕の湯気は、まだ、細く、立ちのぼっていた。


東門のほうから、白い髪の男が、走ってきていた。ジェロームだった。サイラスが、そのうしろにいた。壁の上まで立ちのぼった湯気の柱を、東門の外の軍船の上から、見たのだった。

ジェロームは、砂の上に膝をついて、ミラベルの左腕を見た。まだ、湯気を吐いている腕を。

『まだです』

ジェロームの声は、落ち着いていた。三十年、止まりかけた機械の前で、そうしてきた声だった。

『刃は、止まっただけかもしれません。…燃やし続けているのは、腕です。腕を外せば、燃えるのが止まります。共和国の刃が、そうでした』

「外せば、戻るのか」

『胸の中に、燃やす所があります。そこが、焼け切れる前なら。…あなたの一滴で、また、動きます』

ジェロームは、ミラベルの腰の、名前のない剣を、指さした。

『錆びない金属を切れるのは、それだけです。…肘の、肉のつなぎ目を』

マーロウは、剣を、抜いた。

手が、震えていた。

ミラベルの左肘の、金属と肉のつなぎ目に、刃を当てた。

「…すまん」

一息に、引いた。

金属の左腕が、肘から先ごと、砂の上に、落ちた。

湯気が、止まった。

ジェロームが、ミラベルの胸に、耳を当てた。

『…今です。一滴を』

マーロウは、自分の指を、噛み破った。血を、ミラベルの唇に、落とした。

一滴。

波の音だけが、していた。

ミラベルの金属の左目に、光が、ほんの一瞬、灯ったように、見えた。

機械が止まってから、六十七日目の朝だった。

第三章 了