第三十四章
満ちる

二日後の夜明け前、東の縁に、みんなが、集まった。
誰も、何も、言わなかった。焚き火の火も、もう、小さかった。
縁のいちばん端に、杭が、一本、打ってあった。ベルが、ゆうべ、打った杭だった。
ベルは、その前に、しゃがんでいた。
波が、寄せた。
杭の根もとを、濡らした。
引いた。
また、寄せた。今度は、引かなかった。
『…ゼロです』
ベルが、言った。平らな声で。
『縁まで、届きました。…三年と、ちょうどです』
縁の上が、しんと、した。
それから、ガスが、両手を、空に、突き上げた。声は、出なかった。口だけが、大きく、開いていた。
リーネが、縁の草の上に、しゃがんだ。
手のひらを、地面に、当てた。
とん、とん、とん、とん、とん、とん、とん。
七つ。
地面の、ずっと下で、何かが、鳴った。
とん。
七つ、返ってきた。
『…ナナ』
リーネは、地面に、言った。
『いっぱいに、なったよ。…縁まで』
少しして、もう一度、とん、と、鳴った。
ウィラは、水際へ、下りた。
リーネが、隣に、来た。オスカが、うしろに、立った。
二人は、水から、半歩、離れて、しゃがんだ。
水の中で、青い光が、ゆっくり、近づいてきた。白い根が、何本も、揺れていた。
ヨカだった。
『ヨカ、三年、待ってた』
オスカが、言った。
『決まるまで、待つって、言ったから』
「…お待たせ」
ウィラは、首の袋の紐を、ほどいた。
ミラベルの粒を、手のひらに、のせた。
リーネが、外套の前から、握った手を、出した。指を、一本ずつ、開いた。
父さんの粒。
二つの、印のない粒。名前の、書いていない、粒。
三年、同じ重さだった。米の半分。十グラム。
「ねえ、リーネ」
『なに』
「あたしね、ずっと前、ニムさんの店で、言ったの。秤の横で、粒を、見て」
ウィラは、手のひらの粒を、見ていた。
「牛の名前は、書いてないんだね、って」
リーネは、黙って、聞いていた。
「粒には、何が消えたのか、書いてないの。牛一頭。羊二頭。…名前は、どこにも、なかった。三百年、ずっと」
ウィラは、顔を、上げた。
「でも、この二つは、ちがう」
『名前、ある』
「うん。石に、ある。ロズリンの帳面に、ある。…あたしたちの、口の中に、ある」
ウィラは、手のひらを、水の上へ、伸ばした。水には、触れないところまで。
リーネも、伸ばした。
二つの手のひらが、水の上に、並んだ。
「消えても、何が消えたのか、ちゃんと、わかる」
白い根が、二本、伸びてきた。
一本は、ウィラの手のひらへ。一本は、リーネの手のひらへ。
根の先が、粒に、そっと、触れた。
今度は、戻らなかった。
粒を、包んだ。
青い光の中で、二つの粒が、ゆっくり、透きとおった。溶けていった。
ヨカが、ふうっと、ふくらんだ。
水が、盛り上がった。桶一杯ぶん。もう一つ、桶一杯ぶん。
ふくらんだ水は、輪になって、窪地の海へ、広がっていった。
沖へ。かすんだ向こう岸のほうへ。どこまでも。
リーネの手のひらは、空っぽだった。
ウィラの手のひらも、空っぽだった。
けれど、軽くは、なかった。
ウィラは、立ち上がった。
海に向かって、息を、吸った。
「ミラベル・グリム・ケイン!」
リーネが、隣で、立ち上がった。
『マーロウ・ケイン!』
窪地じゅうに、響いた。
縁の上で、ガスが、叫んだ。同じ二つの名前を。三本の指の手を、振り上げて。
ドラグが、叫んだ。ロズリンが、帳面を、胸に、抱いたまま、叫んだ。チビが、わけも分からずに、叫んだ。
ベルが、叫んだ。一番、と。
オスカが、叫んだ。ミラが、叫んだ。ヒルデが、ゾルの家の者たちが、叫んだ。ドミニクが、十四人の船乗りが、エステルが、セラフィナが、エミルと、ヘルガが。グレイが、杖を、突き上げて。
名前が、何十も、何百も、海の上を、渡っていった。
名前は、言うと、減らない。
増える。
水際で、アカリと、シオが、顔を、上げた。エマの鈴が、ちりん、と、鳴った。
東の空が、白くなった。
窪地の海に、朝の光が、一本、まっすぐ、走った。
ウィラと、リーネは、水際に、並んで、座った。背中を、縁の岩に、つけて。膝を、抱えずに。
何かを待つときの、座り方。
もう、何も、待っていなかった。
それでも、二人は、そう、座った。
リーネが、指を、折った。
『せん、さんびゃく、よんじゅう、よん』
「千三百四十四」
ウィラが、言った。
二人の声が、そろった。
『明日も、数える?』
「数える。…ずっと」
『うるさいって、言われるよ』
「言われたい」
リーネが、笑った。ウィラも、笑った。
海は、縁まで、いっぱいだった。
機械が止まってから、千三百四十八日目の、朝だった。
第三十四章 了
第十三巻 了
『海壁』 完
