海壁

第四章

深い器

挿絵:深い器

夜明けに、ウィラは、塔の階段のいちばん上の段で、指を、折った。

「…二百三十二」

リーネが、隣で、同じ数を、言った。毛布にくるまったまま、目も、ちゃんと、開けずに。

朝の光の中に、海が、あった。

塔のまわりを、ぐるりと、浅く、広く。白い建物が、膝まで、水に、浸かっていた。水の下で、塩の平野の白い底が、光っていた。

ゆうべのことが、夢では、なかった。

ウィラは、長く、息を、吐いた。


ベルが、白い建物の屋根の上に、立っていた。

長い竿を、両手で、持っていた。竿の先を、そっと、水に、差しこんでいた。手は、水に、触れないように。

「ベル。…何してるの」

『測っています』

ベルは、竿を、引き上げた。濡れたところに、指で、印を、つけた。

『海は、測るものですので。…海壁の街でも、毎朝、そうしていました』

「どう?」

ベルは、少しだけ、黙った。

『夜のあいだに、指の関節、二つ、下がりました』

ウィラは、ベルを、見た。

『塩の平野に、しみこんでいます。それから、日に、焼かれています。…このままなら、ひと月で、この海は、なくなります』


グレイの船の甲板に、みんなが、集まった。

グレイと、セドリック。議長のエドガーと、提督のヴァレリア。ヒルデ。ヨナスと、ペトラと、アディ。マルタ。ドラグとロズリン。ジェロームと、サイラス。ウィラと、リーネと、オスカと、ベル。ニコは、手すりの外の、ドンの手のひらの小舟の上から。

ジェロームが、眼鏡を、押し上げた。

『浅い海は、日に、焼かれて、減ります。…深い器に、入れなければ、残りません』

「深い、器」

ウィラは、言った。

それから、ゆうべ、ナナが言ったことを、話した。西の、大きな穴のことを。

「東の、大窪地。…三百年前まで、海だった穴。深さは、何百メートルもあるの。底に、古い船が、二十三隻、沈んでる。父さんと、縁を、歩いた」

ウィラは、甲板の手すりの向こうの、ドンを、見た。

「ドンは、海壁の街から、歩いてきた。窪地の底を、通って。…一歩ごとに、底が、濡れてた。あたし、船の上から、見たの」

ニコが、小舟の上で、うなずいた。

『ドンの体は、水だから。…歩くと、水も、一緒に、行くんだよ』

提督のヴァレリアが、腕を、組んだ。

「窪地までは、ここから、船で、一日半だ。…水を、運べる船は、一隻も、ない。何隻あっても、足りん」

『船じゃない』

ウィラは、言った。

『ドンと、トンと、コンと、ナナ。…四人で、運ぶの。体ごと』

甲板が、静かになった。

ヨナスが、ゆっくり、口を、開いた。草の匂いのする男だった。

「窪地の底には、塩が、残っています。…粒から戻った水は、しょっぱくない。でも、窪地に入れば、しょっぱくなる」

ヨナスは、ウィラを、見た。

「海に、戻ります。…三百年ぶりに」

グレイが、長いこと、黙っていた。

それから、言った。

『…それも、みんなで、決めることか』

「うん」

ウィラは、うなずいた。

「でも、ひと月しか、ないの」

グレイは、ふん、と、鼻を鳴らした。白い髭の下で。

『三日で、決める。…それ以上は、待たん』


夕方、ドラグが、海の浅いところに、入っていった。

水は、ドラグの膝までだった。オークは、海の水では、変わらない。

ロズリンは、水際の、乾いた塩の上に、立っていた。帳面を、胸に、抱えて。

「来い」

ドラグが、振り向いて、言った。

『入れません。…人間ですので』

「入らんでいい」

ドラグは、水の中を、戻ってきた。それから、ロズリンを、両腕で、すくい上げた。水に、一滴も、触れないように、胸の高さに。

そのまま、海の中へ、歩いていった。

ロズリンは、ドラグの腕の中で、下を、見た。

足の下に、水が、あった。夕日が、水の上に、長く、映っていた。

『…海の、上に、いるみたいです』

「上に、おる」

『足が、一滴も、濡れないのに。…海の、まん中に、います』

ロズリンは、ドラグの首に、腕を、回した。

『…好きです』

「知っとる」

ドラグは、海を、見たまま、言った。

「…おれもだ。…毎日、言わせるな」

『毎日、言います』

ウィラは、水際で、チビを、抱いていた。ロズリンに、預けられたのだった。

チビが、ウィラの指を、つかんだ。ぎゅっと。

「…ほら。あれ、おまえの、父さんと、母さん」

チビは、何も、分からない顔で、ウィラの指を、しゃぶった。


夜、海の東の岸に、ペトラが、座っていた。

乾いた塩の上に。膝を、指で、叩きながら。

ペトラは、膝を叩いて、数える人だった。共和国の畑で、ヨアの湧いた夜に、東から来る足音を、数えた人だった。

ロズリンが、灯りを持って、横に、来た。

「…数えていますか」

『足音です』

ペトラの指が、止まらなかった。

『東から。…乾いた土地の、ずっと奥から』

ペトラは、東の、暗い地平線を、見ていた。

『畑で、数えたときより、ずっと、多い。…水の匂いが、届いたんでしょう』

ペトラの指が、速くなった。

『まだ、遠い。でも、来ます。…この海に』

機械が止まってから、二百三十六日目の夜だった。

第四章 了