第十一章
しょっぱい手

「海の、そばへ」
ウィラは、言った。自分の声が、遠かった。
「海の、そばにいれば、進まない。…孤独の大地に、海が、ある」
ヘルガは、ずぶ濡れのまま、娘の肩を、つかんでいた。
『谷を、空けられないよ』
「母さん」
『管が、また、しみたら。坑に、水が入ったら。…誰が、怒鳴るんだい』
エミルが、母親の手を、両手で、つかんだ。塩でひび割れた、しょっぱい手を。
「あたしが、熱で、運ばれたとき。母さん、墓を、一人で、掘ったんでしょ」
ヘルガは、黙った。
「帰ったら、掘り返してくれた。掘り返すほうが、掘るより、ずっといいって」
エミルの声が、震えた。
「今度は、あたしが、運ぶ。…母さんを、海の、そばまで」
ヘルガは、長いこと、娘の顔を、見ていた。
それから、縁の上の、谷の者たちを、見上げた。オークの、年寄りの男が、一歩、前に、出ていた。坑で、ヘルガの声に合わせて、塩を引いていた男だった。
『頭。…坑は、わしらが、見とる。怒鳴るのは、わしが、やる』
ヘルガは、ふん、と、鼻を、鳴らした。
「あんたの声じゃ、誰も、動かないよ」
『動かんでも、怒鳴る』
ヘルガは、少しだけ、笑った。
「…なら、頼んだよ」
船は、北東へ、飛んだ。
ヘルガは、甲板の隅に、座っていた。毛布に、くるまって。エミルが、その横から、離れなかった。
昼過ぎ、ヘルガが、自分の手のひらを、見下ろした。
『…変だね』
「どうしたの」
『手が、痛くない』
エミルの顔が、こわばった。
ヘルガの手のひらは、塩で、ひび割れていた。何十年も、ずっと、痛かったはずの手。
エミルは、知っていた。
「…あたしも、最初は、そうだった」
エミルは、言った。
「熱の瓶を、飲んだ夜。…最初に、痛いのが、なくなった」
ウィラは、甲板の手すりを、握りしめていた。
父さんも、そうだった。海をかぶって、二日目の夜に、痛みが、消えた。父さんが、昔、話していた。
『深い水は、浅い海より、ずっと、強い』
マティアスが、静かに、言った。白い手を、膝の上に、置いて。
『煮詰めた瓶なら、一晩。…煮詰めていない水を、頭から浴びたら。私にも、分かりません』
夕方、ヘルガが、エミルに、言った。
『…ありがとう、ございます』
エミルが、凍りついた。
ヘルガは、毛布を、かけなおしてもらったところだった。それだけのことに、頭を、下げていた。いつもなら、ふん、と、鼻を鳴らすところだった。
「母さん」
エミルは、母親の顔を、両手で、挟んだ。
「ヘルガ・ハーグレイヴ」
ヘルガが、一拍、止まった。
名前を呼ばれると、一拍、止まる。変わりかけた者の、しるしだった。
それから、ヘルガは、ゆっくり、まばたきを、した。
『…なんだい。大きな声で』
いつもの声だった。
エミルは、母親の胸に、額を、押しつけた。肩が、揺れていた。
ウィラは、二人の横に、しゃがんだ。何も、言えなかった。ただ、エミルの背中に、手を、当てた。オスカが、その反対側から、開いたままの手のひらを、エミルの背中に、当てた。
夜のあいだじゅう、エミルは、母親の名前を、呼んだ。
ヘルガが、うとうとすると、呼んだ。ヘルガ・ハーグレイヴ。
そのたびに、ヘルガは、一拍、止まって、それから、なんだい、と、言った。
ウィラは、甲板で、一人で、指を、折った。夜明けには、まだ、早かった。それでも、折った。
父さんは、十一日を、数えながら、待った。数えるしか、なかったから。
「…早く」
ウィラは、船の舳先の、暗い空に、言った。
「早く、着いて」
次の日の夕方、塩の平野の、光る水が、見えた。
孤独の大地の、新しい海だった。
船が、岸に、降りた。光の柱の下に、ドラグが、待っていた。ロズリンも。ジェロームも。リーネも。
『ドラグ!』
ウィラは、叫んだ。
『ヘルガさんが、深い水を、浴びたの! 頭から! …海の、そばに!』
ドラグは、何も、訊かなかった。
光の柱の中へ、入っていった。毛布ごと、ヘルガを、太い腕に、抱え上げた。それから、岸の、波打ち際の、すぐそばまで、運んだ。乾いた塩の上に、そっと、下ろした。
「…オークに、担がれるのは、初めてだよ」
ヘルガが、言った。
「よろしく、お願い、いたします」
ドラグの眉が、動いた。
ジェロームが、ヘルガの前に、膝をついた。
『海の、そばにいれば、進みません。体が、自分の水を、使わずに、済みますので』
ジェロームは、眼鏡を、押し上げた。
『それから、深い水で、変わりかけた者は、同じ深い水を、一滴ずつ、毎日。…三か月で、戻ります』
「同じ、深い水…」
エミルが、つぶやいた。
「谷の、管の水は、もう、凍らせちゃった」
『同じ水なら、ここに、ございます』
ジェロームは、塔の入り口を、見た。
日が、沈んだところだった。
塔の入り口の暗がりから、黒い水が、そっと、あふれた。
ナナだった。
東の砂の下の、大きな海で、生まれた子。ヘルガが浴びたのと、同じ海の水の、体。
リーネが、ナナの前に、走っていった。
「ナナ。…ヘルガさんに、一滴、あげて。毎日」
ナナの黒い水の指が、ゆっくり、伸びた。
ヘルガの唇の上で、止まった。
一滴が、落ちた。
ヘルガは、目を、閉じた。
『…しょっぱいね』
それから、目を、開けた。
『あんたも、しょっぱい手を、してるんだね』
ナナの体の奥で、青い光が、ふっと、明るくなった。
エミルが、母親の横に、座った。背中を、塔の壁に、つけて。
「母さん。…毎朝、名前、呼ぶからね。三か月」
ヘルガは、ふん、と、鼻を、鳴らした。
いつもの、鳴らし方だった。
機械が止まってから、二百四十二日目の、夕方だった。
第十一章 了