海壁

第三十三章

エマ

挿絵:エマ

七日後、帝国の船が、東門の前に、降りた。

セラフィナの船だった。舳先で、エステルが、手を、振っていた。背が、ずいぶん、伸びていた。

乗ったのは、ウィラ、リーネ、ベル、ミラ。ドラグと、チビを抱いたロズリン。ガス。

それから、エマだった。

光の柱が、エマを、持ち上げた。エマは、四本の脚を、つっぱって、目を、まんまるにした。首の鈴が、ちりちりちり、と、鳴りっぱなしだった。

「エマ! 大丈夫! 落ちないから!」

ウィラは、柱の中で、エマの首を、抱いていた。

むかし、馬を船に上げたときと、同じことを、言っていた。


壁の上に、街の者が、並んでいた。

ニム。ヴェスタ。オットと、サム。ミア。グロム。ガルド。ニコは、ドンの手のひらの舟から、手を、振っていた。

ガルドが、左手を、上げた。

ウィラは、背中の剣に、触れた。それから、手を、振り返した。


一晩明けた、次の日の夕方、窪地が、見えた。

ウィラは、息を、のんだ。

青かった。

縁から、縁まで。かすんだ向こう岸まで。どこまでも、海だった。白い塩の底は、もう、どこにも、見えなかった。沈んだ二十三隻も、浮いた船も、みんな、海の上か、海の下だった。

縁のすぐ下まで、波が、寄せていた。

「…いっぱい」

リーネが、言った。

『指の関節、一つ。…あと、二日です』

ベルが、言った。それから、少しだけ、口の端を、上げた。

『一番が、見たら、転がる回数を、数えきれません』


東の縁に、船が、降りた。

まっさきに、走ってきたのは、オスカだった。

開いたままの両手を、大きく、広げて。ウィラの前で、止まった。止まりきれずに、ぶつかった。

「オスカ!」

『ウィラ。…遅い』

「三年だよ。…三年、待たせた」

『待ってない。ヨカと、見てた』

オスカは、少しだけ、笑った。それから、リーネを、見た。

『リーネ。…大きく、なった』

「オスカは、おんなじ」

『刃は、大きく、ならない』

リーネは、オスカに、飛びついた。オスカは、開いた手のひらで、リーネの背中を、左右から、そっと、挟んだ。


縁には、もう、たくさんの人が、いた。

ヒルデと、ゾルの家の者たち。水際には、アカリと、シオ。二つの大きな背中が、並んで、水を、飲んでいた。

エミルと、ヘルガも、いた。東の谷から、来たのだった。ヘルガは、縁に、立って、長いこと、海を、見ていた。

『…あたしの浴びた水が、こんなとこまで、来たのかい』

「母さんの浴びたのは、ひと口ぶんだよ」

『ひと口でも、来たんだよ』

ヘルガは、鼻を、すすった。それから、エミルの頭を、ひび割れた手で、がしがしと、なでた。

グレイ将軍も、いた。杖を、ついていた。提督と、議長も。三人で、縁の上に、並んで、海を、見ていた。


水際に、大きな船が、浮いていた。

帆は、もう、つぎはぎでは、なかった。白い、新しい帆が、三枚。船首には、錆びない金属の、細い板が、打ちつけてあった。字は、まだ、彫っていなかった。

ドミニクが、梯子の下に、立っていた。髭は、まだ、細く、編んでいた。少しだけ、白いものが、混じっていた。

『ウィラ・ケイン』

「ドミニク」

『名前は』

ウィラは、船を、見上げた。三枚の帆。空っぽの、船首の板。

それから、振り返った。

エマが、光の柱から降ろされて、縁の草を、食べていた。首の鈴が、ちりん、と、鳴った。

「…エマ」

ドミニクは、片眉を、上げた。

『牛の名前か』

「母さんの、名前。…それと、牛の」

ウィラは、言った。

「母さんの名前を、この子に、つけたの。…エマ・ドーセット。歌が、下手」

ドミニクは、しばらく、黙っていた。

それから、編んだ髭を、指で、しごいた。

『船頭の約束だ。…牛も、乗せる、と、言った』

ドミニクは、振り返って、甲板に、声を、張った。

『エマ号だ! 板に、彫れ!』


エマは、光の柱で、甲板に、上げられた。今度は、脚を、つっぱらなかった。

船が、水際を、離れた。白い帆が、風を、はらんだ。

エマは、甲板の真ん中で、首を、伸ばして、海の匂いを、かいだ。鈴が、ちりん、と、鳴った。

ウィラは、エマの首を、抱いていた。

「…エマ。海だよ」

エマが、鼻を、鳴らした。

「海が戻ったら、浜で、飼うって、父さんに、言ったの。…浜どころじゃ、なかったね」


夜、甲板の上で、ドラグが、ロズリンの横に、座っていた。

ロズリンの帳面の、端の線は、もう、何頁にも、わたっていた。

「…何本だ」

『千九十三本です』

ドラグは、海を、見た。

「毎日は、叫ばん、と、言うたな」

『言いました』

ドラグは、立ち上がった。船べりに、両手を、ついた。

大きく、息を、吸った。

「ロズリン・モーテンセン!」

窪地じゅうに、響いた。縁の焚き火のまわりで、誰かが、口笛を、吹いた。ヒルデの笑い声が、聞こえた。

ドラグは、何も、言わずに、座りなおした。耳の先が、赤かった。

ロズリンは、帳面に、線を、一本、足した。それから、少し、考えて、もう一本、足した。

『大きいのは、二本ぶんです』

「…数え方が、変わっとるぞ」

『記録係ですので』

チビが、二人のあいだで、眠っていた。首の名札が、星の光で、小さく、光っていた。

機械が止まってから、千三百四十六日目の、夜だった。

第三十三章 了