第三十章
帰る

その日の昼、セラフィナの船が、東の縁を、発った。
乗ったのは、ウィラ、リーネ、ベル、ミラ、ドラグ。エステルと、セラフィナ。
ニコは、ドンの手のひらの舟で、帰ると、言った。
『ドン、歩くの、遅いから。…話し相手が、いる』
「筒、ちゃんと、飲んでね」
『姉ちゃん、それ、会うたびに言う』
「会うたびに、言うの」
縁の上で、オスカが、手を、振っていた。開いたままの手のひらを、大きく、左右に。
横に、ヒルデが、腕を組んで、立っていた。うしろに、ゾルの家の者たち。水際に、アカリと、シオ。水の中に、ヨカの、青い光。
坂の下の船の上で、ドミニクが、帆の綱を、引いていた。
『名前は、待っとるぞ!』
「考えとく!」
ウィラが、叫び返すと、ドミニクは、笑って、帆を、上げた。
つぎはぎの帆が、風を、はらんだ。
リーネが、角笛を、一回、長く、吹いた。
縁の上から、返事は、なかった。角笛を、持っている者が、いなかった。
その代わりに、オスカが、両手を、高く、上げた。
手のひらを、ぱん、と、一回、合わせた。
ここまで、聞こえるはずのない、音だった。
ウィラには、聞こえた。
船の上で、リーネは、ずっと、窓の外を、見ていた。
『…オスカ、いない』
「いないね」
『朝、数えるとき。オスカの、ぶんも、言う』
「あたしも」
リーネは、窓に、額を、つけた。それから、外套の前から、粒を、出した。
『オスカも、自分で、決めた』
「うん」
『あたしたちも、そのうち、決めるね』
ウィラは、首の袋に、手を、当てた。
「…そのうち」
次の日の夕方、海壁の街が、見えた。
灰色の、長い壁。浜の、緑の草。南の岩の前の、三つの石。
リーネが、角笛を、一回、長く、吹いた。
壁の上から、グロムの角笛が、一回、長く、返ってきた。
船が、東門の前に、降りた。
門の前に、ロズリンが、立っていた。チビを、抱いて。
帳面を、開いたまま、胸に、抱えて。
ドラグは、梯子を、降りた。
ロズリンの前に、立った。
何も、言わなかった。ロズリンも、何も、言わなかった。
ロズリンが、帳面を、こちらに、向けた。
頁の端に、線が、並んでいた。
「…何本だ」
『三十五本です』
ドラグは、少しのあいだ、黙っていた。
それから、言った。
「三十五回だ。…向こうで、毎朝」
ロズリンの眼鏡の奥で、目が、細くなった。
『聞こえていました』
「…聞こえるわけが、なかろう」
『聞こえていました』
ロズリンは、もう一度、言った。それから、チビごと、ドラグの胸に、額を、つけた。
チビが、ドラグの髭を、つかんだ。ドラグは、されるままに、なっていた。
うしろで、ガスが、鼻を、すすっていた。
「おかえり! …おかえり、この野郎!」
『二回しか、言っとらんぞ』
「三回目は、ウィラのぶんだ!」
ガスは、ウィラの頭を、三本の指で、がしがしと、なでた。
『おかえり、この野郎!』
日が沈むころ、ウィラと、リーネは、南の岩へ、歩いた。
石が、三つ。
名前のない、リーネ・ケインの石。
ミラベル・グリム・ケイン。数えるのが、うるさい。
マーロウ・ケイン。かんがえとく、が、ながい。
石の前には、杏が、三つ、置いてあった。ミアが、毎日、置いてくれていたのだった。
リーネが、新しい杏を、三つ、隣に、並べた。
『おじさん。ねえちゃん。おばあちゃん』
リーネは、しゃがんで、言った。
『窪地で、山が、来たの。アカリっていうの。エステルが、名前、つけたの。…ウィラが、口に、剣、はさんだの』
「はさんだのは、オスカと、二人で」
『オスカは、窪地に、残ったの。ヨカと、一緒に。…自分で、決めたの』
波の音が、していた。
ウィラは、二人の石のあいだに、座った。背中を、岩に、つけて。膝を、抱えずに。
「父さん。…船に、名前、つけてって、言われた」
ウィラは、白い石の、自分の字を、見た。
「考えとく、って、言っちゃった」
リーネが、吹き出した。
『おじさんの、うつった』
「うつった」
ウィラは、笑った。笑って、それから、空を、見上げた。
「…父さん。考えとくって、こういう気持ちだったんだね」
決めたいのに、決めたら、終わってしまう気がする。
だから、もう少しだけ、手の中に、置いておく。
ウィラは、首の袋を、握った。
機械が止まってから、二百八十八日目の、夕方だった。
第三十章 了