第二十七章
帆

船は、走った。
つぎはぎの帆が、風を、はらむたびに、古い板が、きしんだ。舳先が、水を、切った。白い泡が、両側へ、分かれていった。
ウィラは、船べりに、つかまっていた。顔に、しぶきが、かかった。
「…しぶきなら、始まらない」
自分に、言い聞かせるように、言った。
船のうしろの水の中を、青い光が、ついてきていた。ヨカだった。白い根を、長く、流しながら。
オスカが、船尾で、それを、ずっと、見ていた。
窪地の真ん中あたりで、風が、止まった。
帆が、しぼんだ。だらりと、垂れた。
船が、遅くなった。止まりそうになった。
『櫂だ!』
ドミニクが、叫んだ。
噛む兵だった五人が、櫂を、水に、入れた。漕いだ。船は、少しだけ、進んだ。
けれど、遅かった。粒を噛んでいたころの、十倍の力は、もう、なかった。
ドラグが、上着を、脱いだ。
「貸せ」
オークの腕が、櫂を、握った。一漕ぎで、船が、ぐんと、前へ出た。
それでも、東の縁は、まだ、遠かった。
『…昼過ぎに、着くって』
ウィラは、セラフィナの言葉を、思い出していた。早いものは、昼過ぎに。
もう、日は、真上に、近かった。
ニコが、船べりに、しゃがんでいた。耳を、甲板の板に、当てていた。
『…ナナ』
ニコが、言った。
『ナナが、起きた。…下から、押すって』
「ナナ、昼は、上に、来られないんでしょ」
『上には、来ない。…いちばん下から、押すって。日の、届かないとこから』
船の下で、海が、低く、鳴った。
とん。
窪地の底から、何かが、海を、持ち上げていた。大きな、うねりが、船の下を、東へ、走った。
船が、うねりに、乗った。
帆は、しぼんだままだった。それでも、船は、走りだした。風のときより、速く。
ヨカの青い光も、うねりに乗って、ついてきた。
ドミニクが、舵を、握ったまま、笑った。笑いながら、泣いていた。
「…海が、押しとる。親父の親父の、そのまた親父の、話のとおりだ」
ドラグが、櫂を、置いた。汗を、腕で、拭った。
それから、ウィラの横に、来た。
「…今朝」
ドラグは、東を、見たまま、言った。
「言うたか、と、訊かんのか」
『聞こえなかった。…聞こえないふり、したから』
「そうか」
ドラグは、少しだけ、笑った。
「三十三回目だ。…帰ったら、線が、三十三本、ないと、困る」
ミラが、舳先に、立っていた。
金属の目が、細くなっていた。
『…光ってる』
ミラが、言った。
東の縁が、近づいていた。縁の上の空が、黄色く、濁っていた。土煙だった。
『いっぱい。…数えられない。お腹、みんな、光ってる』
ミラは、木の指を、開いた。閉じた。
『それから。…山が、光ってる』
「山?」
『縁の、上。いちばん、奥。…山みたいな、一頭。お腹が、灯りみたい』
ウィラの背中が、冷たくなった。
『みんなの光が、それに、合わせて、光ってる。…どくん、どくん、って』
孤独の大地で、ゲルダが、言ったことだった。ほかの全部が、あれに、合わせてる。
シオも、そうだった。
東の縁の、坂の下に、船が、着いた。
波打ち際に、オークが、並んでいた。三十人ほど。ゾルの家の者たちだった。
その真ん中に、ヒルデが、立っていた。太い三つ編みを、背中に、垂らして。牙の金の輪は、一つ、欠けたままだった。
横に、シオが、いた。焼けた塩の背中が、日を、受けて、白く、光っていた。
『来たか』
ヒルデは、ウィラを、見た。
『遅いぞ。…ウィラ・ケイン』
「船で、来た。走る船で」
『知っとる。…縁から、見えとった』
ヒルデは、坂の上を、見上げた。
縁の上に、土煙が、立っていた。
その中から、最初の獣たちが、こぼれるように、坂を、下りてきた。犬ほどの、小さな獣。何百。そのうしろに、錆色の板の、目のない獣。焼けた塩の背中。口から、白い光を、吐く獣。
『殺すな、と、おまえは、言うんだろう』
「言う」
『わしも、言う』
ヒルデは、牙を、見せて、笑った。
『…水の飲み方を、教えるのは、わしの、仕事だ』
オークたちが、波打ち際に、並んだ。
盾で、受けずに。横から、押し返して。
ウィラとオスカが、坂の途中に、立った。半分この剣を、二人で、握って。刃の腹で、ほんの少しだけ、当てて。半歩。
ベルが、犬ほどの獣を、三頭ずつ、抱えて、坂の上へ、放り返した。
押し返しきれなかった獣が、波打ち際まで、来た。首を、下げた。口を、水に。
その口に、水の中から、白い根が、するりと、入った。
獣の腹の光が、外側から、消えた。
獣は、ぶるっと、体を、ふるわせて、水を、飲んだ。腹は、もう、光らなかった。
「…ヨカ!」
オスカが、叫んだ。
一頭。また一頭。根が、伸びるたびに、腹の光が、消えていった。
けれど、坂の上からは、まだ、まだ、こぼれてきた。
縁の上で、地面が、鳴った。
土煙が、割れた。
山が、動いていた。
焼けた塩が、何層にも、重なった背中。割れ目が、赤く、光っていた。脚は、壁の根の柱より、太かった。頭が、縁の上に、出てきた。
腹の奥で、白い光が、灯りのように、脈打っていた。
どくん。
坂じゅうの獣の腹が、それに合わせて、光った。
『…あれ』
ミラが、船の舳先で、言った。
山のような一頭が、坂を、下りはじめた。一歩ごとに、坂が、崩れた。
まっすぐ、水のほうへ。
その前に、シオが、出た。
機械が止まってから、二百八十六日目の、昼過ぎだった。
第二十七章 了