海壁

第八章

足りない

挿絵:足りない

昼、大きな獣は、塔のそばの、乾いた塩の上で、眠っていた。

丘のような背中が、ゆっくり、上下していた。腹の中で、ときどき、ちゃぷん、と、水の音がした。

リーネが、その鼻先に、しゃがんでいた。

少し、離れて。手は、伸ばさずに。

『ウィラ』

「なに」

『この子、名前、ある?』

ウィラは、笑った。

「リーネ、名前つけるの、好きになったね」

『だって、ないと、呼べないもん』

リーネは、獣の、焼けた塩の背中を、見上げた。

『…シオ』

「シオ?」

『しょっぱい背中だから。…それに、海を、飲みに来たから』

獣の耳のあたりが、ぴくりと、動いた。

リーネが、ぱっと、顔を、上げた。

『いま、聞こえた?』

「聞こえたかも」

『シオ』

獣は、目を、開けなかった。ただ、鼻から、長い息を、ふうっと、吐いた。乾いた塩が、少し、舞った。

リーネは、満足そうに、うなずいた。


夜、二人は、塔の階段のいちばん上の段に、座っていた。背中を、塔の壁に、つけて。

海の上に、月が、長く、映っていた。

『ねえ』

リーネが、言った。

『ねえちゃんと、おじさん。…どっちが、先に、好きって、言ったの?』

ウィラは、吹き出した。

「ミラベル。毎日。朝から晩まで。…坊や、好き、大好き、って。壁の上で、叫んでた」

『おじさんは?』

「一回だけ」

『一回だけ?』

「一回だけ。年の最後の日に、壁の上で。好きだ、って。…あたし、聞こえないふりして、全部、聞いてた」

リーネは、指を、一本、立てた。

『いち』

「でもね」

ウィラは、海を、見た。

「父さん、毎朝、ミラベルの唇に、一滴、落としてた。ミラベルが、生きていけるように。一日も、休まずに」

ウィラの声が、少し、小さくなった。

「…あれが、毎朝の、返事だったんだと思う」

リーネは、立てた指を、しばらく、見ていた。

それから、もう一本、立てた。それから、もう一本。

『じゃあ、いっぱい』

「…うん。いっぱい」


次の日の朝、グレイの船の甲板に、みんなが、集まった。

三日たった朝だった。グレイが、決めると言った日。

グレイが、輪を、見回した。

『窪地へ、海を、運ぶか』

最初に、口を開いたのは、ヒルデだった。牙の金の輪が、一つ、欠けたままだった。

「運べ」

短く、言った。

「水が戻れば、灯りは、遅れて来る。…あの獣たちを見て、分かった。水がなければ、生き物は、粒を食う。人も、同じだ」

エドガーが、うなずいた。ヴァレリアも。ヨナスも。

マルタが、小さな声で、言った。

『運んでください。…イーダが、そうしたいと、思います』

ドラグが、腕を、組んだまま、言った。

「おれの壁の外の海は、残った。…ここの海も、残してやれ」

グレイは、ウィラを、見た。

『ケインの娘』

「…はい」

『おまえは』

ウィラは、手すりの外の、ドンを、見た。ドンの手のひらの、小舟の上の、ニコを。塔の影の、トンと、コンを。

「みんなが、いいなら。…ドンたちが、いいなら」

ニコが、小舟の上で、ドンの手のひらに、自分の手を、かざした。

しばらく、黙っていた。

それから、ニコの顔が、少し、曇った。

『…いいって。運ぶって』

ニコは、言った。

『でも』

「でも?」

『足りないって』

甲板が、静かになった。

『この海、全部、運んでも。…窪地の、いちばん深いとこが、少し、濡れるだけだって』

ニコは、ドンを、見上げた。

『窪地は、大きすぎるんだって。ドンが、底を、歩いてきたから、分かるって。…三百年ぶんの海が、消えた穴だから』


誰も、すぐには、口を、開かなかった。

ウィラは、手すりを、握りしめた。

父さんと、縁を、荷車で、歩いた窪地。何日も、何日も、歩いても、向こう岸が、かすんでいた。底に、二十三隻の船が、小さく、見えた。

あの穴を、この海で。

少し、濡れるだけ。

ヴァレリアが、ため息を、ついた。

「船が何隻あっても、足りないと言ったのは、私だ。…個体でも、足りんか」

グレイが、黙っていた。

そのとき、ニコが、塔のほうを、振り向いた。

塔の入り口の、暗がりに、黒い水が、少しだけ、のぞいていた。昼だった。日の当たらない、階段の奥。

ナナだった。

『ナナが、言ってる』

ニコは、目を、閉じた。

『…東の、砂の下に、あたしの、うちが、あるって』

「ナナの、うち?」

『大きな、海。…ナナが、生まれた海。本部の手が、閉じる前は、つながってた海』

ニコは、目を、開けた。

『窪地を、いっぱいにしても、まだ、ずっと、残るくらい、大きいって。…でも、遠いって。砂の、ずっと下』

ウィラは、ジェロームを、見た。

ジェロームは、眼鏡を、外していた。

「東の砂の下の海、でしたら」

ジェロームは、言った。

「本部が、管を、通しておりました。おととしの冬に。…東の谷から、ここまで」


十二の家の者たちの中から、若い女が、一人、前に、出た。

腰に、先の丸くすり減った鉄の棒を、下げていた。東の谷で、塩の崖に、坑を掘ってきた家の娘だった。

エミル・ハーグレイヴだった。

「その管なら、知ってる」

エミルは、言った。丁寧でない言い方で。

「東の谷の、塩の下を、通ってる。荷車三台ぶんの、太い管。…うちの家の、三本の線が、刻んであった」

エミルは、鉄の棒の、丸い先を、指でなぞった。

「去年の夏に、閉じた。横に、一本、線を、引いて。本部が、私には、開けられません、って、言った」

エミルは、ウィラを、見た。

「閉じたのは、あたし」

それから、言った。

「…開けるのも、あたし」

機械が止まってから、二百三十九日目の、朝だった。

第八章 了