海壁

第二章

担ぐ

挿絵:担ぐ

水が、丸い部屋の床に、広がった。

黒い筋と、透きとおった筋が、渦を巻きながら。床の石の目地を、一つずつ、埋めていった。

ベルが、一歩、下がった。

『この水には、触れられません。…私も、オスカも、燃えます』

「知ってる」

ウィラは、グリフォンの鞍の上から、言った。

ジェロームが、眼鏡の奥の目を、大きくしていた。

『人も、です。…下の、閉じた水が、混ざっています。日の光を、一度も、浴びていない水です。浅い海の水とは、ちがいます。十一日も、かかりません』

グレイが、戸口で、振り向いた。

「塔から、出ろ! 全員だ!」


塔の外の白い道には、人が、あふれていた。

ゆうべ、名前を書いた人たちだった。何千の列が、そのまま、白い道と塩の平野で、夜を明かしていた。

塔の入り口から、水が、噴き出した。

階段を、滝のように、下った。白い道に、広がった。白い建物の壁の根を、ぐるりと、囲んだ。それから、塩の平野へ、流れ出した。

塩が、しゅわしゅわと、鳴った。乾いた白い地面が、水の下で、溶けていった。

誰かが、叫んだ。

「海の水だ! 触るな!」

人が、逃げ出した。押し合って、転んだ。転んだ人の手の先に、水が、迫った。

グレイが、塔の階段の上に、立った。

『船! 光の柱を、下ろせ!』

白い髪が、風に、なびいた。年寄りの声とは、思えなかった。

『人間は、柱へ! …人の続きの者は、人間を、担げ!』


オークの兵が、走った。

転んだ人を、肩に、担ぎ上げた。人間の女を。人間の子どもを。人間の年寄りを。オークも、ゴブリンも、海の水では、変わらない。水の中を、ざぶざぶと、歩いて、光の柱へ、運んでいった。

ゴブリンの男が、小さな体で、人間の男を、背負っていた。翼のある人が、子どもを抱えて、低く、飛んだ。

ヒルデ・ゾルが、エステルを、片腕で、肩に、乗せた。

「つかまれ」

エステルは、灯りを抱えたまま、ヒルデの太い三つ編みに、しがみついた。

『…ゾルの家の、長に』

セラフィナが、ヒルデを、見上げた。

『担がれるとは、思いませんでした』

「裁かれる前に、一つくらい、役に立たせろ」

ヒルデは、もう片方の腕で、セラフィナの腰を、すくい上げた。二人を担いで、水の中を、まっすぐ、歩いた。牙の金の輪が、朝の光を、はじいた。


ガルドは、グレイの兵の、オークの大男に、担がれていた。

『…降ろせ。歩ける』

「歩けても、水には、入れんでしょう」

オークの兵は、言った。

「控えは、黙って、担がれててください。…水が戻る日のための、控えなんでしょう」

ガルドは、黙った。それから、ふん、と、鼻を鳴らした。

『帝国の千人隊長が、担がれるとはな』

マルゴットと、ブルーノも、オークの兵の肩の上だった。ブルーノは、布を巻いた両腕を、胸の前で、縮めていた。マルゴットが、その横で、大きな手で、兵の肩を、ばしばしと、叩いていた。

「もっと、ゆっくり! この子の腕に、しぶきが、かかるだろ!」

マルタと、白い服の人たちは、塔の東の水路のほうから、運ばれてきた。マルタは、オークの兵の背中で、両手を、合わせていた。


ドラグは、ロズリンを、ケイルごと、腕に、抱えていた。

『隊長。…歩けます』

「歩くな」

『帳面が、濡れます』

「おれが、濡らさん」

水が、ドラグの膝まで、来ていた。ドラグは、ロズリンとケイルを、胸の高さに、持ち上げた。

「おまえは、書いとけ。…おれが、運ぶ」

ロズリンは、ドラグの胸に、帳面を、押し当てた。それから、ペンを、とった。揺れる腕の中で、書いた。

帝国暦三五〇年、春の終わり。孤独の大地の、塔の下で。粒の山が、水に、戻る。

チビが、ロズリンの胸の布の中から、小さな手を、出した。ドラグの指を、つかんだ。

「…つかむな。運びにくい」

『離しませんよ。…隊長の子ですから』

ドラグの耳の先が、赤くなった。


日が、昇った。

ウィラとリーネは、グレゴールのグリフォンで、グレイの船の甲板に、降りた。オスカは、ロルフのグリフォンで。ベルは、白い建物の屋根から屋根へ、跳んで、光の柱へ。

甲板の手すりに、人が、鈴なりになっていた。

ウィラは、下を、見た。

白い道が、なかった。

塔のまわりが、全部、水だった。浅く、広く。白い建物が、水の中に、立っていた。塩の平野の、ずっと向こうまで、水が、光っていた。

ドラグが、光の柱の下で、水の中に、立っていた。ロズリンとケイルを、柱の中へ、押し上げてから。

ドラグは、手のひらで、水を、すくった。なめた。

「…しょっぱい」

ジェロームが、手すりから、身を乗り出した。

『塩です。…平野の塩が、溶けています』

ジェロームは、眼鏡を、押し上げた。指が、震えていた。

『海の水が、乾いても、塩は、残ります。…この平野は、ずっと昔、十二人よりも前に、海だったのでしょう』

ウィラは、手すりを、握った。

「…海だ」

父さんが、残した海。ミラベルが、入った海。その、どれとも、ちがう海。

リーネが、ウィラの横で、海、できた、と、小さく、言った。粒を、外套の前に、押しつけたまま。


そのとき、塔のほうから、声がした。

ドンの手のひらの、小舟の上から。ニコだった。

『ウィラ! ナナが…!』

ニコの声が、裏返っていた。

『ナナが、痛いって! ナナの子たちに、日が、当たってる!』

朝の光が、新しい海の上に、まっすぐ、射していた。

機械が止まってから、二百三十五日目の朝だった。

第二章 了