第十八章
船頭

次の朝、納屋の戸口で、二人の声が、そろった。
『にひゃく、ごじゅう、に』
「二百五十二」
リーネは、それから、壁の根へ、走っていった。いつもの癖だった。小さな屋根の下は、もう、空っぽだった。オスカは、ウィラのうしろに、立っていた。
リーネは、屋根の下で、足を止めた。それから、振り向いた。
『オスカ。…いい?』
オスカは、少し、考えた。
「いい」
『しゃべった!』
「しゃべるよ。…もう、だまってない」
昼、ウィラは、ニムの店に、行った。
リーネと、オスカと、一緒に。
「ニムさん。…筆、貸して。いちばん細いの」
ニムは、棚の奥から、細い筆を、一本、出した。毛が、三本くらいしか、なかった。
『布目の数を、帳面に書く筆じゃ。…何に使う』
ウィラは、首の袋から、粒を、出した。ミラベルの粒。
リーネも、父さんの粒を、出した。
ニムは、二つの粒を、しばらく、見ていた。
それから、ふん、と、鼻を、鳴らした。
『米の半分に、字は、書けんわ』
「やってみる」
ウィラは、筆に、墨を、ほんの少し、つけた。粒を、指先で、押さえた。息を、止めた。
筆の先を、粒に、当てた。
墨は、つかなかった。
粒の上で、丸くなって、ころりと、すべり落ちた。
「…あれ」
もう一度。
墨は、また、すべり落ちた。粒は、光ったまま、つるりとしていた。
『粒は、目に見えん物の、結び目じゃろ』
ニムが、言った。
『結び目に、墨は、のらん。…わしは、二百年、粒を数えてきた。一度も、のったのを、見たことがない』
リーネが、ウィラの袖を、つかんでいた。
ウィラは、筆を、置いた。
「…ありがとう、ニムさん」
ニムは、筆を、受け取らなかった。
『持っとけ。…のる日が、来るかもしれん』
東門の横の小屋の前で、ドミニクが、座っていた。
痩せて、背の低い男。黒い髭を、細く、編んでいた。耳飾りは、もう、なかった。旗のない船、二隻で来て、壁の根の棚の粒を奪おうとした、ハイトの家の船頭だった。
三か月、この街から、出られない。捕らえた十五人は、みんな、そうだった。小屋の前で、壁の兵と一緒に、縄をなっていた。
ドミニクは、ウィラの背中の剣を、見た。
『…刃の子、じゃなかったな。ウィラ・ケイン』
「覚えてたの」
『耳飾りを、二つ、噛んだ相手だ。忘れるか』
ドミニクは、縄を、なう手を、止めた。
『東の窪地に、海が、できたそうだな』
「…誰に、聞いたの」
『この街じゅうが、言っとる。灰色の船が、帰ってきてからな。…船が、浮いた、と』
ドミニクは、縄を、膝に、置いた。
『三百年前の船が、何隻も、浮いとるんだろう』
「うん。いちばん大きいのは、市場が、まるごと入るくらい」
ドミニクの目の色が、変わった。
『帆は』
「ない。骨だけ」
『舵は』
「…分かんない」
『櫂は。錨は。船底の、継ぎ目は』
ウィラは、首を、横に、振った。
ドミニクは、長いこと、黙っていた。
それから、言った。
『おれは、船頭だ。…空を飛ぶ船じゃない。水の上を、走る船の』
ウィラは、ドミニクを、見た。
『ハイトの家の船は、粒で浮く。光の柱で、浮く。…だが、うちの家は、昔、海を走っとった。三百年より、ずっと前だ。親父の親父の、そのまた親父が、水の上で、帆を張った。それが、家に伝わっとる。帆の結び方。舵の取り方』
ドミニクは、自分の手を、見下ろした。縄の跡の、ついた手を。
『誰も、使わんかった。…水の上を走る船が、どこにも、なかったからな』
「…行きたいの? 窪地に」
『行きたい』
ドミニクは、すぐに、言った。
『あの船を、動かしたい。…耳飾りを噛むより、ずっと、そっちがいい』
夕方、ベルと、グロムが、東門の横の小屋に、来た。
『三か月が、明けるのは、十一日後です』
ベルが、言った。
『ですが、窪地は、海です。…海のそばから、海のそばへ、行くのなら』
グロムが、黒の書に似た帳面を、開いていた。捕らえた者の帳面だった。
「船で、一日半。そのあいだだけ、海から、離れる」
『一日半なら、平気です。着いた先が、海なら、進みません』
ベルは、ドミニクを、見た。
『ただし、着いた先から、三か月が終わるまで、離れないでください。…窪地の海の、そばから』
ドミニクは、笑った。初めて、笑った。
「離れるか。…あんな海から」
グロムが、帳面に、書いた。
ドミニク・フラー。窪地の海へ、移る。船頭として。
それから、グロムは、ペンを、止めた。
『誰が、運ぶ』
ドミニクの顔から、笑いが、消えた。
灰色の船は、グレイの兵の船だった。勝手には、動かせない。
その夜、納屋で、ロズリンが、ミアに、帳面を、読んで聞かせていた。
窪地の海の、頁だった。呼んだのは、リーネ・グリム・ケイン。七つ。
ミアは、自分の左の帳面に、それを、写していた。この街に残った人の名前を書く、帳面に。
『リーネは、この街の子だから。…左にも、書く』
ミアは、言った。
サムが、戸口で、妹の背中を、見ていた。
「…ミア。字、うまくなったな」
『兄ちゃんより、ずっと、うまいよ』
「知ってる」
サムは、それだけ、言った。それから、妹の頭に、ぽんと、手を、置いた。
干し草の上で、リーネは、粒を、握ったまま、眠っていた。
ウィラは、隣で、ニムの細い筆を、灯りに、かざしていた。
墨の、のらない粒。名前の、書けない粒。
ウィラは、棚の上の、小さな木箱を、見た。
色の剥げた、木彫りの牛が、入っている箱。海壁の街の、乾いた底の、三百年前の船から、父さんたちが、拾ってきた箱。
蓋の裏に、字が、彫ってあった。
カリン・ケイン。五つ。
ウィラは、長いこと、その字を、見ていた。
機械が止まってから、二百五十六日目の、夜だった。
第十八章 了