海壁

第二十二章

何と、刻む

挿絵:何と、刻む

東門の横の小屋で、ガルドは、楔を、削っていた。

ウィラとリーネが、戸口に、並んで、立った。

ガルドは、顔を、上げなかった。

『…来たか』

「ガルドさん。石に、名前、彫って」

『誰の』

「父さんの」

ガルドの左手が、止まった。

それから、小屋の裏を、顎で、指した。

裏の壁に、白い石が、一つ、立てかけてあった。南の岩の、ミラベルの石と、同じくらいの大きさの、平たい石だった。

「…これ」

『おまえが、粒に、字が彫れるかと、訊いた日にな。拾ってきた』

ガルドは、楔を、また、削りはじめた。

『粒は、彫れん。…なら、そのうち、こっちを、訊きに来ると思った』

リーネが、石の前に、しゃがんだ。手のひらで、表を、なでた。すべすべしていた。

『何と、刻む』

ガルドが、言った。ミラベルの石のときと、同じ言い方だった。

「マーロウ・ケイン」

『それだけか』

ウィラは、黙った。

あのとき、父さんも、黙った。ウィラが、袖を、引いた。数えるのが、うるさい、と、父さんが、ぼそりと、言った。

今度は、袖を引く相手が、いなかった。

『明日の朝までに、決めてこい』

ガルドは、言った。

『字は、おまえらが、書け。墨でな。…おれは、その上を、彫る』

「ガルドさんが、書いたほうが、きれいだよ」

『左で書くと、曲がる』

ガルドは、楔の削り屑を、吹き飛ばした。

『曲がってていい、と、言ったのは、おまえだ。…だが、あいつの字は、おまえらの字が、いい』


昼、二人は、市場を、歩いた。

父さんは、どんな人だったか。会う人に、訊いて、回った。

「ガスさん。父さんって、どんな人だった?」

ガスは、三本の指で、頭を、がしがしと、かいた。

『一人で、拾いに行くやつだった。…壁の外に、落ちてきたもんを、いつも、一人で』

「知ってる」

『四人で行ったのは、一回だけだ。乾いた底の、三隻の船。…あいつ、帰りに、また行くか、って、言いやがった』

「…行ったの?」

『行けなかった。…そのあと、いろいろ、ありすぎた』

ガスは、鼻を、すすった。

「ニムさんは?」

ニムは、杏を、二人の手に、押しつけながら、言った。

『馬鹿だ』

「それだけ?」

『肩を、切って、うちに来た日に、そう言った。…わしの店に、あんな馬鹿は、一人しか、来んかった』

ニムは、そっぽを、向いた。七本の指で、目の下を、こすった。

「ベルは?」

ベルは、杭の列の前で、少しだけ、考えた。

『一番の、横に、座る人でした』

「…父さんのこと、だよね」

『はい。一番が、跳ねても、転がっても。…いつも、横に、座っている人でした』


夕方、詰め所の部屋で、ドラグが、チビを、膝にのせていた。

ロズリンが、帳面を、閉じた。

『隊長は、何と、彫りますか』

「…礼を、言わん男だった」

ドラグは、チビの小さな手に、自分の指を、つかませていた。

「謝りもせん。頼みもせん。…それで、全部、やった」

『長すぎます。石に、入りません』

「だから、おれは、決めん。…決めるのは、あいつの、子だ」

チビが、ドラグの指を、口に、入れようとした。ドラグは、指を、引かなかった。


夜、納屋の板壁の前で、リーネが、しゃがんでいた。

いちばん下に、釘で、刻んだ字が、あった。

リーネ・グリム・ケイン。かぞえるのが、うるさい。

父さんが、いなくなる前の夜に、刻んだ字だった。

『おじさん、あたしのは、書いたのに』

「うん」

『自分のは、書かなかった』

「…うん」

リーネは、指で、字を、なぞった。一字ずつ。

『ねえ、ウィラ。あたしね、おじさんに、毎朝、きいたの。線を、消しながら。…あたしの名前、いつ? って』

「毎朝?」

『毎朝。…そしたら、毎朝、おんなじこと、言うの』

リーネは、父さんの、低い声を、まねた。

『かんがえとく』

ウィラは、吹き出した。

吹き出してから、止まらなくなった。干し草の上に、ひっくり返って、笑った。

「…言ってた。ミラベルにも、言ってた。名字、ちょうだいって、言われて。子どもの名前、決めてって、言われて。…ずっと。考えとく、って」

『ながいの』

「長いの。すっごく」

笑っているうちに、ウィラの目から、涙が、出てきた。拭いても、拭いても、出てきた。

リーネが、ウィラの顔を、のぞきこんだ。

『…それにする?』

ウィラは、涙を、袖で、拭いた。

「それにしよう」


灯りの下で、ウィラは、ニムの細い筆に、墨を、つけた。

紙に、書いた。

マーロウ・ケイン。

字が、震えた。もう一度、書いた。また、震えた。

十回、書いた。十回目に、やっと、震えなかった。

隣で、リーネが、太い筆で、紙いっぱいに、ひらがなを、書いていた。かんがえとく、が、ながい。

「が」の点が、二つとも、大きすぎた。

『…へん?』

「へんじゃない。リーネの字だもん」

リーネは、筆を、握ったまま、干し草の上で、眠ってしまった。もう片方の手に、粒を、握って。

ウィラは、灯りを、少しだけ、小さくした。

「…父さん。明日、書くからね」

返事は、なかった。

けれど、ウィラは、もう一度だけ、紙に、書いた。

マーロウ・ケイン。

今度も、震えなかった。

機械が止まってから、二百六十七日目の、夜だった。

第二十二章 了