第十三章
名札

二晩目が、明けた。
ウィラは、甲板の手すりの前で、指を、折った。
「…二百四十三」
リーネが、隣で、毛布にくるまったまま、同じ数を、言った。
朝の光の中で、地面が、終わっていた。
赤い土の平らな面が、ゆるい坂になって、その先が、見えなかった。坂の向こうは、白かった。
東の大窪地だった。
深さは、何百メートル。向こう岸は、かすんで、見えない。底まで、全部が、白い塩だった。ところどころ、風で削れた筋が、波の形に、残っていた。
底に、船が、あった。
横倒しのもの。船首を上に向けて、刺さっているもの。骨組みだけのもの。いちばん大きいのは、海壁の街の市場が、まるごと入るほどだった。
「…二十三」
ウィラは、数えていた。二年前と、同じ数だった。
父さんと、荷車で、この縁まで来た。父さんは、縁に立って、海だな、船がある、と言った。どこ行ったの、水、と訊いたら、粒になったんだろ、と言った。
四つの体が、縁で、止まっていた。
ドン。トン。コン。ナナ。海を、体に入れたまま、塔ほどの高さで、窪地を見下ろしていた。そのうしろで、シオが、塩の上に、腹ばいになっていた。
ドンの手のひらの、小舟の上で、ニコが、言った。
『もうすぐ、日が、高くなる。…その前に、下りるって』
グレイが、甲板で、うなずいた。
そのとき、ドラグが、言った。
「待て」
みんなが、ドラグを、見た。
ドラグは、窪地の底を、見ていた。縁の坂の、いちばん下。坂から、いちばん近い船を。
「…先に、底へ、下りたい。一時間でいい」
ロズリンが、帳面を、胸に、抱いた。何も、訊かなかった。知っていたのだった。二年前、ドラグの横で、それを書いたのは、ロズリンだった。
船が、底へ、下りた。
光の柱で、ドラグが、塩の上に、降りた。ロズリンが、ケイルを抱いて、続いた。ウィラも、続いた。
ドラグは、いちばん近い船へ、歩いていった。横倒しの、古い船。腹の板が、半分、はがれていた。
船の影に、ドラグは、しゃがんだ。
塩の上に、金属の板が、一枚、落ちていた。手のひらほどの、細長い板。紐を通す穴が、一つ。
名札だった。
半分、塩に、埋まっていた。
ドラグは、太い指で、塩を、払った。字が、出てきた。壁の兵の名札だった。
ケイル・モーテンセン。
ドラグは、しばらく、動かなかった。
「二年前に、置いた」
ドラグは、言った。誰にでもなく。
「兄貴が、ここまで来たことは、分かってた。ここから先は、分からんかった。…分かってる、いちばん遠いとこに、置いた」
ウィラは、覚えていた。帰りに寄る、とドラグが言ったのを。そのとき、まだ置いてあれば、持って帰る、と。
寄れなかった。南へ、行ったから。それから、いろんなことが、ありすぎた。
「その先に、兄貴は、ちゃんと、おった」
ドラグは、名札を、手のひらに、のせた。
「共和国で、翼を借りて、将軍をやっとった。…おれと、組み合って。パンを焼いて。グレゴールを、助けて」
ドラグの声は、いつもと、同じだった。
「…死んだ」
ロズリンが、ドラグの横に、しゃがんだ。何も、言わなかった。ケイルを、そっと、ドラグの腕に、渡した。
チビが、ドラグの指を、つかんだ。
ドラグは、名札を、チビの胸の布の上に、のせた。
「帰りに、寄った。…持って、帰る」
チビが、名札の紐を、小さな手で、ぎゅっと、つかんだ。
ドラグの耳の先が、赤くなった。それから、目が、赤くなった。
ロズリンは、帳面を、開いた。
帝国暦三五〇年、春の終わり。東の大窪地の、底で。ドラグ・モーテンセン、兄の名札を、持って帰る。二年かかった。
船が、縁へ、戻った。
日が、高くなりはじめていた。
ドンが、縁の坂を、下りはじめた。トンが。コンが。ナナが。一歩ごとに、乾いた底が、黒く、濡れた。
四つの体が、窪地の、いちばん深いところへ、歩いていった。いちばん大きな船の、すぐ横だった。
四つの体が、膝を、ついた。
それから、体の中の海を、底へ、こぼした。
水が、広がった。
白い塩の上を、透きとおった水が、すうっと、走った。塩が、水の下で、溶けていった。いちばん大きな船の、竜骨が、濡れた。二隻目の。三隻目の。
ウィラは、手すりを、握りしめていた。
三百年ぶりの、海。
水は、広がって、広がって。
それから、止まった。
窪地の、いちばん深いところに、水たまりが、一つ、できていた。大きかった。海壁の街より、大きかった。
でも、窪地は、それより、ずっと、大きかった。
水たまりのまわりは、どこまでも、白い塩だった。向こう岸は、かすんで、見えなかった。二十三隻のうち、濡れたのは、四隻だけだった。
誰も、何も、言わなかった。
足りない、とニコが言ったのは、本当だった。
リーネが、ウィラの袖を、引いた。
『…ちっちゃい』
「…うん」
『ナナのうち、遠い?』
ウィラは、答えられなかった。
水たまりの真ん中で、ナナが、立ち上がった。
黒い水の体が、日の光の中で、少し、揺れていた。痛いのだろう。ウィラは、そう思った。
ナナが、窪地の、東のほうを、向いた。
ニコが、小舟の上で、身を乗り出した。
『ナナが、言ってる』
ニコの声が、震えた。
『…地面の下を、行くって。トンが、都の地面の下を、歩いたみたいに。四人で。…あたしのうちまで、水の道を、つなぐって』
「水の、道」
『東の砂の下の、海まで。…つないだら、ここに、湧くって』
ドンが、ニコの小舟を、船の甲板に、そっと、下ろした。
『ニコは、上で、待っててって』
ニコは、甲板に、膝をついた。それから、ドンの光る手に、自分の手を、かざした。
『…何日?』
長い、間が、あった。
『分からないって』
ナナが、水たまりの底に、黒い指を、当てた。
とん。
それから、四つの体が、水たまりの底に、沈んでいった。塩を、溶かしながら。地面の、下へ。
光る体が、最後に、消えた。
水たまりだけが、残った。
シオが、縁から、のそのそと、坂を下りていった。水たまりの岸で、止まった。それから、四つの体が消えたあたりを、じっと、見ていた。
機械が止まってから、二百四十七日目の、朝だった。
第十三章 了