第十七章
線を消す

朝、窪地の縁で、船が、三つの方角へ、別れた。
グレイの船は、東の帝都へ。提督の船は、南の共和国へ。灰色の船は、西の海壁の街へ。
ウィラは、灰色の船の甲板から、窪地を、見下ろしていた。
きのうより、また、青かった。浮かんだ船が、ゆっくり、水の上で、向きを変えていた。
ニコが、手すりから、身を乗り出していた。
「ドン、まだ、底?」
『まだ。…ぐっすり』
ニコは、窪地に、手を、振った。誰も、振り返さなかった。
『起きたら、海壁の街に、帰ってくるって。…あの海が、ドンのうちだから』
ニコは、手すりに、あごを、のせた。
『ぼくも、うちに、帰る』
シオは、波打ち際に、残った。
灰色の船が浮かぶと、シオは、首を、少しだけ、持ち上げた。焼けた塩の背中が、朝の光で、白く、光った。
リーネが、船べりから、叫んだ。
『シオ! 水、ちゃんと、飲んでね!』
シオは、鼻から、長い息を、ふうっと、吐いた。乾いた塩が、少し、舞った。
「…返事、したね」
『した』
リーネは、満足そうに、うなずいた。
一晩目の夜、ウィラは、甲板で、膝を抱えずに、座っていた。背中を、帆柱に、つけて。
オスカが、隣に、座った。開いたままの手を、膝の上に、置いて。
『ウィラ』
「なに」
『帰ったら、剣、どうする』
ウィラは、背中の剣に、触れた。ミラベルの剣。半分こで握ってきた剣。
「…分かんない。ガルドさんに、返すのかな」
ガルドが、少し離れたところで、鼻を、鳴らした。
『返されても、困る。…おれの手は、一本だ。もう、振らん』
「…じゃあ」
『半分こ、続ける?』
オスカが、言った。
「続ける」
ウィラは、すぐに、答えた。
「振らなくても。…半分こは、続ける」
オスカは、少しだけ、笑った。ミラベルとは、違う笑い方で。
次の日の夕方、灰色の、長い壁が、見えた。
海壁だった。その向こうに、海。
ウィラは、船べりから、身を乗り出した。
壁のいちばん上に、影が、いくつも、並んでいた。
リーネが、首の角笛を、両手で、持ち上げた。
「…リーネ、それ、吹く人、あっちだよ」
『知ってる。…でも、吹く』
リーネは、船の上から、角笛を、吹いた。
ぶおおおおーっ。
一回、長く。
壁の上から、角笛が、返ってきた。一回、長く。
グロムだった。
東門の前に、船が、降りた。
みんなが、いた。
ガスと、オットと、サム。ニムと、ヴェスタ。ミアと、ミラ。グロム。村の長と、アンズ。
それから、茶色い牛が、一頭。額に、白い、ぶち。
『エマ!』
ウィラは、梯子を、半分のところから、飛び降りた。
エマは、ウィラの胸に、鼻先を、押しつけた。それから、ウィラの外套の袖を、もぐもぐと、噛んだ。
『噛まないで。…噛んでいいけど』
ミアが、エマの綱を、持っていた。
「毎朝、浜の草のとこまで、連れてった。引っぱられた。…毎朝」
『ありがとう、ミア』
「あたしも、帳面、書いてた。…左の帳面。この街に、残った人の名前」
ガスが、三本の指で、ウィラの頭を、がしがしと、なでた。
『おかえり! おかえり! …おかえり、この野郎!』
三回目は、長かった。
「…ただいま、ガスさん」
ニムが、杏の袋を、ウィラと、リーネと、オスカに、一つずつ、押しつけた。
『痩せとる。三人とも。…食え』
「ありがとう、ニムさん」
ヴェスタが、ウィラの手のひらを、ひっくり返した。豆の跡を、見えているほうの目で、見た。
『また、すり切ったな』
「…すり切れちゃうんだもん」
『知っとる』
ヴェスタは、根の酒の瓶を、ウィラの手に、押しつけた。
グロムが、ドラグの前に、立った。
『壁は、守っておきました。…人を、守る壁を』
「…ご苦労」
ドラグは、それだけ、言った。それから、黒の書を、受け取った。
最後の頁の、自分の、汚い、まっすぐな字の下に、グロムの字が、何行も、続いていた。
帝国暦三五〇年、春の終わり。壁の外から、戻った者、なし。浜で、子どもが、転んだ。泣いた。立った。
ドラグは、その行を、長いこと、見ていた。
「…いい行だ」
日が沈むころ、ウィラは、リーネと、納屋に、入った。
板壁の前に、立った。
春までの六十本の線。全部、斜めに、消してあった。その下に、リーネの刻んだ線が、二本。
つぎの たんじょうびまで。
ウィラが かえるまで。
リーネは、釘を、握った。
二本目の線の上に、斜めに、一本、引いた。
ゆっくり。ていねいに。
それから、ウィラを、見上げた。
『…消した』
「うん」
『帰ってきたから』
「帰ってきた」
リーネは、釘を、握ったまま、しばらく、消した線を、見ていた。
それから、ウィラの腰に、しがみついた。
『…おかえり。二回目』
「数えてるの」
『数えてない』
ウィラは、笑った。それから、リーネの頭に、手を、置いた。
夕日の中を、二人で、南の岩へ、歩いた。
禁止区の、いちばん南の、突き出た岩。そのそばに、石が、二つ。
名前を彫っていない、リーネ・ケインの石。
白い石。ミラベル・グリム・ケイン。数えるのが、うるさい。
石の前に、干し杏が、一つ、置いてあった。乾いて、小さくなっていた。
『ミアが、置いてくれたんだ』
リーネは、新しい杏を、ニムの袋から、一つ、出した。古い杏の、隣に、置いた。
それから、白い石の前に、しゃがんだ。
『ねえちゃん』
リーネは、言った。
『海、できたよ。…窪地に。東の、大きな穴に』
波の音が、していた。
『ナナが、うちの海を、つないだの。あたしが、ナナって、呼んだら、起きたの。七つ、返ってきたの』
リーネは、指を、折った。
『船が、浮いたよ。いちばん大きいのも。…三年で、縁まで、いっぱいになるって。ベルが、測ったの』
リーネは、隣の石にも、向いた。
『リーネおばあちゃんにも。…海、できたよ』
ウィラは、二人の石のあいだに、座った。背中を、岩に、つけて。膝を、抱えずに。
リーネが、隣に、同じように、座った。
「…ミラベルなら、なんて言うかな」
『うるさい』
「え」
『ねえちゃん、うるさく、言うよ。すごーい、すごーい、って。三回。…それから、ころがるの』
ウィラは、吹き出した。笑いながら、目の奥が、熱くなった。
「…うん。三回、転がる」
ウィラは、首の袋に、手を、入れた。
ミラベルの、最後の一粒。印のない、名前の、書いていない、粒。
手のひらに、のせた。夕日の中で、小さく、光っていた。
リーネも、外套の前から、握った手を、出した。父さんの粒。
二つの粒を、二人で、並べて、見ていた。
米の半分ほどの、小さな粒だった。
『…ちっちゃい』
リーネが、言った。
『ちっちゃすぎて、字、書けないね』
ウィラは、答えなかった。
答えを、持っていなかった。
機械が止まってから、二百五十五日目の、夕方だった。
第十七章 了