海壁

第十九章

名代の船

挿絵:名代の船

九日が、たった。

朝、リーネが、納屋の戸口で、指を、折った。

『にひゃく、ろくじゅう、いち』

「二百六十一」

ウィラが、うしろで、言った。

そのとき、壁の上で、角笛が、一回、長く、鳴った。

船だった。

リーネが、ぱっと、顔を、上げた。それから、首の角笛を、持ち上げかけて、やめた。

『…吹くの、グロムさん』

「うん。リーネは、聞く番」


東門の前に、降りてきたのは、帝国の船だった。灰色の船より、ひとまわり、小さかった。

セラフィナの船だった。

梯子を、まっさきに、駆け下りてきたのは、小さな女の子だった。両手で、硝子の灯りを、抱えていた。

「リーネ!」

エステルだった。

リーネが、走っていった。二人は、門の前で、ぶつかるように、抱き合った。エステルの灯りが、二人のあいだで、揺れた。

『灯り、落とすよ』

「落とさない。…ずっと、持ってきたんだもん」

セラフィナが、梯子を、ゆっくり、降りてきた。銀の髪を、うしろで、まとめていた。左手の布は、もう、取れていた。焼けた跡が、うっすらと、残っていた。

ウィラは、その手を、見た。

『…手、治ったんだ』

「跡は、残りました」

セラフィナは、左手を、少しだけ、持ち上げた。

「エステルを、隠した夜の跡です。…残っていて、いいのです」


詰め所に、みんなが、集まった。

セラフィナは、グレイ将軍の手紙を、ドラグの前に、置いた。

『帝都で、三つの家の長を、裁きました』

「どうなった」

『ブラントの家と、エーベルの家の長は、十の家の席を、降ろされました。…家の蔵の粒は、帝国の蔵へ。子どもの部屋の灯りと、施療所の灯りに、使います』

セラフィナは、少しだけ、黙った。

『ゾルの家の長は、自分から、言いました。…窪地の海の、番をする、と』

「ヒルデか」

ウィラが、言った。

『はい。ゾルの家の者を、連れて。十年、窪地の縁に、住む、と』

セラフィナは、手紙の、次の行を、指で押さえた。

『東から、まだ、獣が来るでしょう。渇いた獣たちが、水の匂いを、嗅ぎつけて。…獣に、水の飲み方を、教えるのは、殺せと言ったわしの仕事だ。…そう、言ったそうです』

ウィラは、孤独の大地の岸で、イーダを抱えて水に入った、オークの女の背中を、思い出していた。牙の金の輪が、一つ、欠けていた。

「…ヒルデさんらしい」


『もう一つ、ございます』

セラフィナが、手紙を、めくった。

『将軍の字です。…窪地に、浮いた船を、動かせる者を、探せ、と』

ウィラは、顔を、上げた。

『三つの家の船乗りを、窪地へ、送るそうです。空を飛ぶ船ではなく、水の上の船を、覚えさせる、と。…けれど、教える者が、帝国に、一人も、おりません』

ドラグが、窓の外を、見た。

東門の横の、小屋のほうを。

「…一人、おる」


ドミニクは、セラフィナの前で、縄の跡のついた手を、膝の上で、握っていた。

「ハイトの家の、船頭だ。…あんたの娘を、帝都で、さらった船の」

セラフィナは、ドミニクを、まっすぐ、見た。

『知っています』

「それでも、おれを、乗せるのか」

『将軍は、水の上の船を、動かせる者を、探せ、と書きました。…さらった者を、除け、とは、書いていません』

ドミニクは、黙った。

エステルが、セラフィナのうしろから、顔を、出していた。灯りを、抱えて。

エステルは、ドミニクの顔を、じっと、見た。

「…こわい人?」

ドミニクは、少しのあいだ、答えなかった。

それから、言った。

『…こわい人、だった。今は、船頭だ』

エステルは、首を、かしげた。それから、うなずいた。

「じゃあ、船、ちゃんと、動かしてね」


夕方、リーネとエステルは、浜の草の上に、並んで、座っていた。

エマが、二人の横で、草を、食べていた。ウィラは、少し離れて、エマの綱を、持っていた。

エステルが、灯りを、膝の上に、置いた。中で、粒が、一つ、光っていた。

『それ、陛下の粒?』

「ちがう。…一さんの粒。前に、この街で、もらったの」

リーネの手が、止まった。

『いち、さん?』

「マーロウの、お兄さんみたいな人。…ずっと前に、死んじゃった人。その人が、作った粒なんだって」

リーネは、外套の前から、握った手を、出した。自分の、印のない粒を。

エステルの灯りの中の粒と、見比べた。

同じ光だった。

『…おじさんのと、おんなじ、光』

「うん。おんなじ」

エステルは、灯りを、両手で、持ち上げた。

「ねえ、リーネ。孤独の大地の、イーダって子、知ってる?」

『知ってる。…粒を、水に、返す子』

「マルタさんがね、言ってた。粒を、水に返すと、その水は、どこにでも、行けるんだって」

エステルは、灯りの中の光を、見ていた。

「海にも。川にも。雨にも。…どこにでも」

リーネは、何も、言わなかった。

自分の手の中の粒を、長いこと、見ていた。


その夜、干し草の上で、リーネが、言った。

『ウィラ』

「なに」

『粒を、水に、返したら。…おじさんは、どこに、行くの』

ウィラは、天井の、暗い梁を、見ていた。

すぐには、答えられなかった。

「…わかんない」

やっと、言った。

「でも、ここには、いなくなる。…手の中には」

リーネは、粒を、握りしめた。

それから、ウィラの背中に、額を、くっつけた。何も、言わなかった。

機械が止まってから、二百六十五日目の、夜だった。

第十九章 了