第二十六章
一番に

二晩、ドンは、歩いた。
昼は、乾いた土地に、膝を、ついて、休んだ。舟の上に、ドンの、もう片方の手が、屋根のように、かぶさった。日陰は、ほんのり、しょっぱい匂いがした。
二度目の夜明け、舟の端で、ドラグが、東の空を、見ていた。
口が、小さく、動いた。
ウィラには、聞こえなかった。聞こえないふりを、した。
リーネが、指を、折った。
『にひゃく、はちじゅう、に』
「二百八十二」
そのとき、ニコが、身を、乗り出した。
『見えた!』
窪地が、青かった。
ひと月前、ここを発った朝、海は、底から、建物の、三階ぶんと、少しだった。いまは、窪地の深さの、四分の一ほどまで、海が、来ていた。上へ行くほど、窪地は、広い。そのぶん、海は、大きかった。向こう岸は、やっぱり、かすんでいた。
坂の途中に、ベルが打った杭が、あった場所。そこも、もう、水の下だった。
「…ベル。杭」
『見えません。…ひと月で、建物の、二十階ぶんほどです』
ベルは、平らな声で、言った。それから、少しだけ、口の端を、上げた。
『一番が、見たら、五回、転がります』
海の上に、船が、何隻も、浮いていた。三百年前の、船の、骨。
その中で、一隻だけ、動いていた。
いちばん大きな、船だった。骨組みの帆柱に、つぎはぎの布が、張ってあった。白い布、灰色の布、天幕の布。風を、はらんで、ふくらんでいた。
船は、海の上を、走っていた。
光の柱は、なかった。粒の灯りも、なかった。風だけで、走っていた。
「…走ってる」
ウィラの声が、震えた。
「ほんとに、走ってる」
ドンが、窪地の西の縁に、膝を、ついた。
縁には、天幕が、いくつも、並んでいた。セラフィナの船が、低く、浮いていた。
梯子を、まっさきに、駆け下りてきたのは、エステルだった。
「リーネ!」
リーネは、舟から、降ろしてもらうと、走った。外套の前から、灯りを、出しながら。
二人は、天幕の前で、ぶつかるように、止まった。
『…返す』
リーネは、灯りを、両手で、差し出した。
『次に、会うとき、って、言ったから』
エステルは、灯りを、受け取った。中で、一の粒が、白く、光っていた。
「…ちゃんと、持ってきたね」
『一回も、落とさなかった』
「知ってる。リーネだもん」
エステルは、灯りを、胸に、抱えた。それから、リーネの手を、ぎゅっと、握った。
「じゃあ、次は、あたしが、会いに行く。海壁の街に。…今度は、あたしが、何か、持っていく」
セラフィナが、梯子の上から、二人を、見下ろしていた。焼けた跡の残る、左の手を、手すりに、置いて。
大きな船が、縁に、寄ってきた。
舳先に、ドミニクが、立っていた。黒い髭を、細く、編んで。日に焼けて、前より、ずっと、黒かった。
『ウィラ・ケイン!』
ドミニクの声が、水の上を、渡ってきた。
「ドミニク! 走ってた! 見たよ!」
『見たか!』
ドミニクは、帆を、指さした。
『帆は、布の寄せ集めだ。舵は、一から、削った。錨は、まだない。…それでも、走る。親父の親父の、そのまた親父の、結び方で』
船乗りだった九人が、帆の綱を、引いていた。噛む兵だった五人が、櫂を、握っていた。十四人とも、笑っていた。
セラフィナが、梯子を、降りてきた。
笑っている者は、もう、いなかった。
『今朝、空から、見てきました』
セラフィナは、東を、見た。窪地の、かすんだ、向こう岸を。
『東の縁の、外。地平線まで、群れです。…土煙が、空まで』
「着くのは」
『早いものは、昼過ぎに。…東の縁に』
「ヒルデさんは」
『東の縁です。ゾルの家の者と。…シオも』
ウィラは、窪地を、見た。
東の縁は、遠かった。窪地の、いちばん広いところの、向こう側だった。
「ドン。…向こうまで、歩ける?」
ニコが、ドンの胸に、手のひらを、向けた。触れない、ぎりぎりのところで。
『縁を、回ったら、三日。…海の中は、深すぎて、歩けないって』
「三日じゃ、間に合わない」
ウィラは、唇を、噛んだ。
ヨカは、ドンの胸の中だった。
ドミニクが、舳先から、飛び降りた。浅いところに、縄の跡のついた手で、船を、つないだ。
『おれの船なら、昼までに、向こうへ、着く』
ドミニクは、ウィラの前に、立った。
『風が、東へ、吹いとる。朝から、ずっとだ』
ウィラは、ドミニクを、見上げた。
ドミニクは、編んだ髭を、指で、しごいた。
『船が、動いたら、一番に、乗せてやる。…そう、言ったな』
「…言った」
『船頭の約束だ』
ドミニクは、船の梯子を、顎で、指した。
『乗れ。ウィラ・ケイン』
ウィラは、梯子を、のぼった。
一番に。
甲板は、古い板だった。乾いた底の、三隻の船と、同じ匂いがした。
オスカが、続いた。ベル。ミラ。ニコ。最後に、ドラグが、梯子を、きしませて、のぼってきた。
リーネは、セラフィナの船に、残った。エステルと、並んで、手すりに、つかまっていた。
『上が、あたしたちの、番!』
「下が、あたしたちの、番!」
ウィラは、叫び返した。
ドンが、海に、両手を、沈めた。
胸の中の、青い光が、腕を、下りていった。手のひらから、水の中へ、すべり出た。
ヨカだった。
白い体が、窪地の、新しい海の中で、ふうっと、ふくらんだ。
オスカが、船べりから、身を、乗り出した。手は、水に、つけなかった。
「ヨカ。…ついてきて」
白い根が、一本、船の腹に、そっと、触れた。
ドミニクが、舵を、握った。
『帆を、上げろ!』
つぎはぎの帆が、風を、はらんだ。
三百年前の船が、東へ、走りだした。
機械が止まってから、二百八十六日目の、朝だった。
第二十六章 了