海壁

第三十一章

九十回目

挿絵:九十回目

夏の終わりに、手紙が、届いた。

帝国の船が、運んできた。孤独の大地から。

ウィラは、納屋の戸口で、それを、読んだ。リーネが、横から、のぞきこんだ。


ウィラへ。リーネへ。

母さんが、戻った。

今朝で、九十回目だった。名前を呼んだら、母さんは、なんだい、朝から、九十回目だよ、と言った。数えてたんだからね、と言った。

母さんも、数えてた。

手は、もう、しょっぱくない。ジェロームが、管の一滴は、もうやめていい、と言った。

母さんは、谷へ帰る。坑のじいさんが、怒鳴る係をそろそろ返せ、と言ってきた。あたしも、一緒に帰る。

いつか、窪地の海を、見に行く。母さんが、自分の浴びた水が、どこへ行ったのか、見たいって。

エミル・ハーグレイヴ。字は、あたし。


その下に、もう一行、太い、曲がった字が、あった。

ヘルガ・ハーグレイヴ。名前は、言うと、増えるんだってね。九十も、増えたよ。

リーネが、指で、数えるふりを、した。

『きゅうじゅう』

「九十」

ウィラは、手紙を、たたんだ。胸の、内側に、しまった。

「…増えたね」


秋が、来た。

浜の草は、ドンが手を置いたところから、少しずつ、広がっていった。エマが、毎朝、その端を、食べた。ドンは、ときどき、沖に、立った。ニコが、壁の上から、手を、振った。

冬が、来た。

雪の朝、帝国の船が、東門の前に、降りた。

エステルだった。

「約束、したでしょ!」

エステルは、梯子を、駆け下りてきた。両手で、小さな布の包みを、抱えて。

「何か、持っていくって」

包みの中には、真鍮の、小さな鈴が、一つ、入っていた。

「エマの! 牛には、鈴でしょ。帝都の、鍛冶屋さんに、作ってもらったの」

リーネが、目を、まるくした。それから、納屋へ、走った。

エマの首に、鈴が、さがった。エマが、首を、振った。

ちりん。

エマは、びっくりして、もう一度、首を、振った。

ちりん。

ウィラは、笑いすぎて、干し草の上に、しゃがみこんだ。


冬の終わりに、チビが、しゃべった。

詰め所の部屋で、ドラグの膝の上だった。毎朝、小さい声で、言われていた名前を、チビは、いちばん先に、覚えた。

「…ろず、りん」

ロズリンが、筆を、落とした。

ドラグが、真っ赤に、なった。

『…隊長。毎朝、どこで、言っていたんですか』

「…チビの、横でだ」

『この子の、最初の言葉が、私の名前です』

「…すまん」

『謝らないでください』

ロズリンは、筆を、拾った。帳面を、開いた。

帝国暦三五一年、冬の終わり。ケイル・モーテンセン、最初の言葉。

それから、少しだけ、ためらって、書いた。

ろずりん。


春の、最初の日が、来た。

朝、納屋の板壁の前で、リーネが、釘を、握っていた。

板壁には、線が、二本、残っていた。一本は、斜めに、消してあった。ウィラが かえるまで。

もう一本は、まだ、消していなかった。

つぎの たんじょうびまで。

リーネは、その線に、斜めに、一本、引いた。ゆっくり。ていねいに。

『…きた』

「きたね」

『たんじょうび。…二回目』

リーネは、振り向いた。それから、指を、折った。

『ごひゃく、にじゅう、に』

「五百二十二」

リーネは、板壁に、向き直った。釘を、握りなおした。

いちばん下の、父さんが刻んだ字の、少し上に、新しい線を、一本、引いた。

その横に、ひらがなで、刻んだ。

ウィラが わかるまで。

ウィラは、その字を、長いこと、見ていた。

「…いつに、なるか、わかんないよ」

『いいよ。まってる』

リーネは、釘を、柱の釘に、かけた。角笛の、隣に。

『まつの、ケインの、とくい』


昼、市場の真ん中で、リーネが、叫んだ。

『あたし、今日、八つーっ!』

ニムの店の二階から、声が、降ってきた。

「うるさいわぁ!」

ガスが、杯を、掲げた。

『リーネに!』

「リーネに!」

『リーネに!』

三回目は、長かった。

リーネは、市場のまん中で、手足を、ばたばたさせて、笑っていた。エマの首の鈴が、ちりん、と、鳴った。

帝国暦三五一年、春の、最初の日。機械が止まってから、五百二十六日目の、昼だった。

第三十一章 了