海壁
第十二巻の終わり 人物相関図
第十二巻の終わり 人物相関図

第一章

ナナ

挿絵:ナナ

床の線は、まだ、光っていた。

細い、黒い線。その奥で、青い光が、息をするように、明るくなったり、暗くなったりしていた。

ウィラは、剣を、床から、少しだけ、浮かせた。腕が、もう、震えていた。

錆びない金属の、丸い床だった。いちばん古い板が、埋めこまれた床。帝国暦八年、冬。十二人で、計算機を、作る。

ウィラは、切りはじめる前に、その板から、いちばん遠いところを、選んでいた。粒の山の、すぐ横を。

「板は、切らない。…十二人の、最初の字だもん」

オスカが、剣の根元を、開いたままの両手で、挟みなおした。

『うん。…二本目』

二人で、線を、横へ、引いた。

しゅっ。

床の下から、とん、と、一つ、返ってきた。

リーネが、床に、手のひらをつけたまま、指を、二本、折った。

「にほんめ。…ナナ、聞こえてる」

三本目で、ウィラは、一度、手を止めた。

汗が、目に、入った。手のひらの豆が、また、つぶれていた。

上は、真っ暗だった。三十五周ぶんの細い道が、灯りの届かない高さまで、ぐるぐると、続いていた。そのまん中に、グレゴールのグリフォンが、翼を広げて、浮いていた。一周上には、ロルフのグリフォンも。

『ウィラ殿。…お休みに、なりますか』

「休まない」

ウィラは、首を、横に振った。

「ナナ、三百年、待ったんだよ。…あと、ちょっとだもん」

三本目。しゅっ。

とん。

四本目は、オスカと、目で、合図をしてから、引いた。

線の端と、最初の線の端が、つながった。

荷車ほどの、四角い床が、ことり、と、鳴った。


四角い床は、すぐには、落ちなかった。

少しだけ、沈んで、止まった。

ウィラは、息を止めた。オスカも。リーネも。

それから、四角い床が、ゆっくり、下へ、傾いた。

音が、しなかった。

しばらくして、ずっと下で、どぼん、と、重い音がした。水の音だった。

四角い穴の底で、黒い水が、揺れていた。青い光が、その奥で、いくつも、灯っては、消えた。

水が、上がってきた。

ゆっくり。床の縁まで。縁の高さで、ぴたりと、止まった。井戸の口に、なみなみと、水を張ったように。

リーネが、穴の縁に、膝をついた。

『ウィラ。…ナナ、来た』

「リーネ。…さわっちゃ、だめだよ」

ウィラは、リーネの外套の背中を、つかんだ。

「深い水だから。日の当たったことのない、水。…人が、手を入れたら、すぐ、変わっちゃう」

『わかってる』

リーネは、水の上に、手のひらを、かざした。指一本ぶん、離して。

「ナナ」

水の面が、ふくらんだ。

黒い水が、細く、伸びた。手の形になった。リーネの手のひらの、指一本ぶん下で、止まった。触れなかった。

それから、黒い水の指が、床を、叩いた。

とん、とん、とん、とん、とん、とん、とん。

七つ。

リーネの顔が、くしゃっと、なった。

『…ナナだ。…さわらないように、止まってくれた』


黒い水が、立ち上がった。

穴から、すうっと、伸びて、伸びて、人の形になった。頭も、顔もない。黒い水の体の奥で、青い光が、星のように、いくつも、瞬いていた。

縦穴の細い道の、二周上まで、届く高さだった。

ナナは、しばらく、動かなかった。

それから、ゆっくり、粒の山のほうへ、体を、傾けた。

ウィラは、ニコの話を、思い出していた。ドンは、この山のにおいが、痛いと言った。遠く、窪地の底を歩いているときから。

ナナは、その山の下に、三百年いた。

リーネが、言った。

「ナナ。…それ、水に、戻していいよ。みんなで、決めたの。上で。何千人で」

ナナの体が、山を、包んだ。


山の光が、外側から、消えていった。

灯りを、一つずつ、吹き消すように。

何千万の粒が、黒い水の中で、ほどけるように、見えなくなった。消えたぶんだけ、水が、増えた。家ほどの高さの山が、雪のように、沈んでいった。

床の上に、水が、あふれた。

「上へ!」

ウィラは、剣を、背中の鞘に、押しこんだ。リーネを、抱き上げた。

グレゴールのグリフォンが、床すれすれまで、降りてきた。

『お乗りください!』

ウィラは、リーネを、鞍の前に、押し上げた。自分も、跳び乗った。

そのとき、リーネの手から、何かが、落ちた。

小さな粒だった。

印のない粒。父さんの。

粒は、鞍の縁で、跳ねて、床へ、落ちた。ころころと、転がった。あふれてくる水の、ほうへ。

「おじさん!」

オスカが、跳んだ。

開いたままの両手を、前に、突き出して。

水の、指一本ぶん手前で、両手のひらが、合わさった。

ぱちん。

オスカの爪先が、水に、ついた。

『…いち』

オスカは、跳ね上がった。濡れた爪先から、小さな粒が、一つ、ぽろりと、落ちた。

ロルフのグリフォンが、横から、オスカを、さらった。


縦穴を、上った。

下で、水が、追ってきた。一周、また一周。

壁の板の字が、一枚ずつ、水の下に、沈んでいった。

帝国暦八年。いちばん古い板が、最初に。

それから、エリスの字。今日、ベアタを、作り直した。

人を、守るために、建てた壁の行。

原型、イーダ・ケイン。

『…字が、沈んでく』

ウィラは、鞍の上で、振り返った。

「沈んでも、字は、消えません」

グレゴールが、手綱を引きながら、言った。

「錆びない板に、彫ってあります。…水の中でも、何百年でも、残ります」

ウィラは、うなずいた。それに、写しもある。ジェロームさんと、サイラスさんが、話し合いの日までに、一行残らず、写してくれた。

上から四周目で、父さんの行が、沈んだ。帝国暦三一九年、夏。海壁の街。一〇六番、生まれる。

いちばん上で、ミラベルの名前が、沈んだ。

ロルフのグリフォンが、並んで、飛んでいた。オスカが、鞍の上から、身を乗り出した。開いたままの両手を、こちらへ、伸ばした。

手のひらのあいだに、粒が、一つ、挟まっていた。

オスカは、その手のひらを、リーネの手の上で、そっと、開いた。

『はい。…はさんだ』

「…おじさん、また、いなくなるとこだった」

リーネは、粒を、両手で、握りしめた。外套の前に、ぎゅっと、押しつけた。

『もう、落とさない?』

「落とさない。…ぜったい」


四角い戸の穴から、グリフォンが、二頭、丸い部屋へ、飛び出した。

戸の前で、ガルドが、ベルが、ジェロームが、グレイの兵たちが、待っていた。

『下がれ!』

ガルドの声が、響いた。

ウィラは、鞍の上から、振り返った。

戸の穴の向こうで、水が、最後の一周を、上ってきていた。黒い水と、透きとおった水が、混ざり合って。青い光を、ちらちらと、まといながら。

水が、戸の、四角い穴の縁を、越えた。

機械が止まってから、二百三十五日目の、朝だった。

第一章 了