
第一章
ナナ

床の線は、まだ、光っていた。
細い、黒い線。その奥で、青い光が、息をするように、明るくなったり、暗くなったりしていた。
ウィラは、剣を、床から、少しだけ、浮かせた。腕が、もう、震えていた。
錆びない金属の、丸い床だった。いちばん古い板が、埋めこまれた床。帝国暦八年、冬。十二人で、計算機を、作る。
ウィラは、切りはじめる前に、その板から、いちばん遠いところを、選んでいた。粒の山の、すぐ横を。
「板は、切らない。…十二人の、最初の字だもん」
オスカが、剣の根元を、開いたままの両手で、挟みなおした。
『うん。…二本目』
二人で、線を、横へ、引いた。
しゅっ。
床の下から、とん、と、一つ、返ってきた。
リーネが、床に、手のひらをつけたまま、指を、二本、折った。
「にほんめ。…ナナ、聞こえてる」
三本目で、ウィラは、一度、手を止めた。
汗が、目に、入った。手のひらの豆が、また、つぶれていた。
上は、真っ暗だった。三十五周ぶんの細い道が、灯りの届かない高さまで、ぐるぐると、続いていた。そのまん中に、グレゴールのグリフォンが、翼を広げて、浮いていた。一周上には、ロルフのグリフォンも。
『ウィラ殿。…お休みに、なりますか』
「休まない」
ウィラは、首を、横に振った。
「ナナ、三百年、待ったんだよ。…あと、ちょっとだもん」
三本目。しゅっ。
とん。
四本目は、オスカと、目で、合図をしてから、引いた。
線の端と、最初の線の端が、つながった。
荷車ほどの、四角い床が、ことり、と、鳴った。
四角い床は、すぐには、落ちなかった。
少しだけ、沈んで、止まった。
ウィラは、息を止めた。オスカも。リーネも。
それから、四角い床が、ゆっくり、下へ、傾いた。
音が、しなかった。
しばらくして、ずっと下で、どぼん、と、重い音がした。水の音だった。
四角い穴の底で、黒い水が、揺れていた。青い光が、その奥で、いくつも、灯っては、消えた。
水が、上がってきた。
ゆっくり。床の縁まで。縁の高さで、ぴたりと、止まった。井戸の口に、なみなみと、水を張ったように。
リーネが、穴の縁に、膝をついた。
『ウィラ。…ナナ、来た』
「リーネ。…さわっちゃ、だめだよ」
ウィラは、リーネの外套の背中を、つかんだ。
「深い水だから。日の当たったことのない、水。…人が、手を入れたら、すぐ、変わっちゃう」
『わかってる』
リーネは、水の上に、手のひらを、かざした。指一本ぶん、離して。
「ナナ」
水の面が、ふくらんだ。
黒い水が、細く、伸びた。手の形になった。リーネの手のひらの、指一本ぶん下で、止まった。触れなかった。
それから、黒い水の指が、床を、叩いた。
とん、とん、とん、とん、とん、とん、とん。
七つ。
リーネの顔が、くしゃっと、なった。
『…ナナだ。…さわらないように、止まってくれた』
黒い水が、立ち上がった。
穴から、すうっと、伸びて、伸びて、人の形になった。頭も、顔もない。黒い水の体の奥で、青い光が、星のように、いくつも、瞬いていた。
縦穴の細い道の、二周上まで、届く高さだった。
ナナは、しばらく、動かなかった。
それから、ゆっくり、粒の山のほうへ、体を、傾けた。
ウィラは、ニコの話を、思い出していた。ドンは、この山のにおいが、痛いと言った。遠く、窪地の底を歩いているときから。
ナナは、その山の下に、三百年いた。
リーネが、言った。
「ナナ。…それ、水に、戻していいよ。みんなで、決めたの。上で。何千人で」
ナナの体が、山を、包んだ。
山の光が、外側から、消えていった。
灯りを、一つずつ、吹き消すように。
何千万の粒が、黒い水の中で、ほどけるように、見えなくなった。消えたぶんだけ、水が、増えた。家ほどの高さの山が、雪のように、沈んでいった。
床の上に、水が、あふれた。
「上へ!」
ウィラは、剣を、背中の鞘に、押しこんだ。リーネを、抱き上げた。
グレゴールのグリフォンが、床すれすれまで、降りてきた。
『お乗りください!』
ウィラは、リーネを、鞍の前に、押し上げた。自分も、跳び乗った。
そのとき、リーネの手から、何かが、落ちた。
小さな粒だった。
印のない粒。父さんの。
粒は、鞍の縁で、跳ねて、床へ、落ちた。ころころと、転がった。あふれてくる水の、ほうへ。
「おじさん!」
オスカが、跳んだ。
開いたままの両手を、前に、突き出して。
水の、指一本ぶん手前で、両手のひらが、合わさった。
ぱちん。
オスカの爪先が、水に、ついた。
『…いち』
オスカは、跳ね上がった。濡れた爪先から、小さな粒が、一つ、ぽろりと、落ちた。
ロルフのグリフォンが、横から、オスカを、さらった。
縦穴を、上った。
下で、水が、追ってきた。一周、また一周。
壁の板の字が、一枚ずつ、水の下に、沈んでいった。
帝国暦八年。いちばん古い板が、最初に。
それから、エリスの字。今日、ベアタを、作り直した。
人を、守るために、建てた壁の行。
原型、イーダ・ケイン。
『…字が、沈んでく』
ウィラは、鞍の上で、振り返った。
「沈んでも、字は、消えません」
グレゴールが、手綱を引きながら、言った。
「錆びない板に、彫ってあります。…水の中でも、何百年でも、残ります」
ウィラは、うなずいた。それに、写しもある。ジェロームさんと、サイラスさんが、話し合いの日までに、一行残らず、写してくれた。
上から四周目で、父さんの行が、沈んだ。帝国暦三一九年、夏。海壁の街。一〇六番、生まれる。
いちばん上で、ミラベルの名前が、沈んだ。
ロルフのグリフォンが、並んで、飛んでいた。オスカが、鞍の上から、身を乗り出した。開いたままの両手を、こちらへ、伸ばした。
手のひらのあいだに、粒が、一つ、挟まっていた。
オスカは、その手のひらを、リーネの手の上で、そっと、開いた。
『はい。…はさんだ』
「…おじさん、また、いなくなるとこだった」
リーネは、粒を、両手で、握りしめた。外套の前に、ぎゅっと、押しつけた。
『もう、落とさない?』
「落とさない。…ぜったい」
四角い戸の穴から、グリフォンが、二頭、丸い部屋へ、飛び出した。
戸の前で、ガルドが、ベルが、ジェロームが、グレイの兵たちが、待っていた。
『下がれ!』
ガルドの声が、響いた。
ウィラは、鞍の上から、振り返った。
戸の穴の向こうで、水が、最後の一周を、上ってきていた。黒い水と、透きとおった水が、混ざり合って。青い光を、ちらちらと、まといながら。
水が、戸の、四角い穴の縁を、越えた。
機械が止まってから、二百三十五日目の、朝だった。
第一章 了