第十章
名前を刻む

夜、ヘルガの家の、塩の床の上で、みんなが、黙っていた。
崖を掘った部屋だった。壁も、床も、白い塩。小さな灯りが、一つだけ、点いていた。
『閉じた坑には、誰も、入らない』
ヘルガが、言った。腕を、組んだまま。
『十の年に、あんたに、教えた。…あんたは、ちゃんと、覚えてた。だから、去年、閉じられたんだ』
エミルは、膝の上で、手を、握っていた。
「窪地に、海を、返すの」
エミルは、言った。
「三百年前に、海だった、穴。東の砂の下の海の水が、要るの。…あの管を通って、行くしかない」
『谷の下を、通ってね』
ヘルガの声が、低くなった。
『去年、獣が、あの管の継ぎ目に、腹をつけて、眠ってた。継ぎ目から、水が、しみてたからさ。…また流したら、またしみる。坑に、海の水が、入る。塩が、溶ける。谷の者が、浸かる』
エミルは、黙った。
ウィラも、何も、言えなかった。谷の塩は、帝国の塩の半分だった。崖の中で、何百人が、暮らしていた。
マティアスが、静かに、口を、開いた。
「継ぎ目は、私が、凍らせます。…凍った水は、何も、濡らしません」
ヘルガは、マティアスの、白くなった手を、見た。
長いこと、見ていた。
ヘルガは、灯りの横の、棚の奥から、何かを、取り出した。
古い、鉄の掘り棒だった。エミルのものより、ずっと太い。先が、すり減って、丸くなっていた。
『あんたの、父さんのだよ』
エミルの目が、大きくなった。
『ヨルク。…あんたが十の年に、本部へ、運ばれた』
ヘルガは、掘り棒の柄を、ひび割れた指で、なぞった。柄に、何か、刻んであった。
『閉じた坑を、開けたことが、一度だけ、ある。あの人がね』
「…父さんが?」
『坑の奥に、オークの子が、一人、取り残されてた。閉じたあとで、分かったんだ』
ヘルガは、掘り棒の柄を、灯りに、かざした。
『閉じた坑を、開けるときは、閉じた者が、横の線の上に、自分の名前を、刻む。…閉じたことを、忘れないように。開けたことを、隠さないように。うちの家の、決まりの、続きだよ』
柄に、曲がった字が、刻んであった。
ヨルク・ハーグレイヴ。
『あの人は、字を、知らなかった。…あたしが、教えた。坑の縁で、指で、塩の上に書いて』
ヘルガの口の端が、少しだけ、上がった。
『名前だけ、覚えるのに、ひと冬、かかった。…覚えた日に、結婚してくれって、言われたよ』
エミルは、掘り棒を、見つめていた。
ヘルガは、それを、娘の膝の上に、置いた。
『あんたが、決めな』
ヘルガは、言った。
『あたしは、横にいる。…前と、同じだ』
朝、ウィラは、崖の戸口で、指を、折った。
「…二百三十七」
孤独の大地で、リーネも、今ごろ、ナナに、同じ数を、言っている。ウィラは、そう思った。
谷の底の、大きな穴に、谷の者たちが、集まっていた。
差し渡し、四十メートル。去年、獣が這い出した穴だった。人間も、オークも、ゴブリンも、縁に、並んでいた。
穴の底を、太い管が、横切っていた。錆びない金属。太さは、荷車を、三台並べたほど。
継ぎ目の横の、乾いた金属に、線が、刻まれていた。
斜めの線が、三本。それを、横切る、一本の線。
エミルが、その前に、しゃがんだ。右手で、剣の柄を、握った。父の掘り棒は、腰に、差していた。
ウィラが、その手の上から、柄を、握った。オスカが、根元を、開いたままの両手で、挟んだ。
「エミルが、引くほうへ、あたしたちが、押す」
『…ミラベルも、そう言ってた。去年』
エミルが、言った。
ウィラは、少しだけ、笑った。
「じゃあ、同じ」
マティアスが、継ぎ目の横に、膝をついた。右手を、かざして。ヘルガが、娘の背中に、立った。掘り棒を、手に。
エミルは、横の線の、上に、刃の先を、当てた。
一字ずつ、刻んだ。
エ。
錆びない金属に、細い、黒い線が、走った。
ミ。ル。
エミルの手は、震えなかった。ウィラとオスカは、エミルの手が動くとおりに、押した。
ハ。ー。グ。レ。イ。ヴ。
最後の一画を、引き終えた。
管が、鳴った。
低い音だった。おととしの冬から、谷の者が、夜ごとに聞いてきた音。ずっと止まっていた音。
それが、また、鳴りはじめた。
管の奥で、水が、動いた。北東へ。孤独の大地のほうへ。
縁の上で、オークの子どもが、母親の服を、引いた。
『…鳴ってる』
エミルは、刻んだ字を、指で、なぞった。自分の名前を。
「…開けた」
ヘルガが、娘の肩に、手を、置いた。
『隠さないで、開けたね』
そのとき、継ぎ目が、鳴った。
低い音では、なかった。きしむ音だった。
去年、水がしみていた、継ぎ目だった。中の水が、一年ぶりに、全部の力で、押していた。
「下がって!」
ウィラが、叫んだ。
継ぎ目が、割れた。
黒い水が、噴き出した。
まっすぐ、エミルのほうへ。
マティアスが、手を、突き出した。水が、白く、凍りはじめた。
でも、間に合わなかった。
ヘルガが、娘の前に、飛びこんだ。
太い腕で、娘を、抱えこんだ。背中で、黒い水を、受けた。
頭から。
マティアスの手の先で、噴き出した水が、白い氷の柱になって、止まった。継ぎ目が、氷で、ふさがった。
穴の底が、静かになった。
ヘルガが、ゆっくり、顔を、上げた。白髪まじりの髪から、黒い水が、しずくになって、落ちていた。腕の中のエミルは、乾いていた。
ヘルガは、濡れた手の甲で、顔を、拭った。
『…しょっぱいね』
エミルの顔から、色が、抜けていった。
「…母さん」
エミルは、母親の、ずぶ濡れの腕を、見ていた。
「浸かった。…頭から」
ウィラは、凍った継ぎ目を、見た。氷の中で、黒い水が、固まっていた。
東の砂の、ずっと下の海の水。一度も、日の光を、浴びたことのない水。
深い水だった。
機械が止まってから、二百四十一日目の、昼だった。
第十章 了