第二十八章
半歩

シオが、山のような一頭の、胸に、頭から、ぶつかった。
どん、と、坂が、揺れた。
シオの脚が、塩の地面に、めりこんだ。焼けた塩の背中が、きしんだ。
山は、止まらなかった。一歩。シオの体ごと、押して、下りてきた。
シオの脚が、うしろへ、すべった。もう一歩。波打ち際まで、あと、十歩。
「シオ!」
セラフィナの船の上から、リーネの声が、降ってきた。船は、いつのまにか、坂の上の空に、浮いていた。
『…シオ。踏ん張れ』
ヒルデが、走った。
シオの横から、山の鼻先に、組みついた。牙の金の輪が、日に、光った。
ドラグが、反対側から、組みついた。
「止まれ!」
ゾルの家の者たちが、山の脇腹に、肩を、当てた。三十人。押し返そうとして、押し返せずに、それでも、足を、ずらさなかった。
山の歩みが、遅くなった。
止まらなかった。
『喉の、奥』
船の舳先で、ミラが、言った。
『結び目。…喉の、奥。いちばん、光ってる』
ウィラは、山の頭を、見上げた。
大きすぎた。口だけで、荷車が、何台も、入りそうだった。
止められない。
ウィラは、それだけ、分かった。
止められないなら。
「…止めなくていい!」
ウィラは、叫んだ。
「水の、すぐ上で、頭を、止めて! 口を、開けさせて!」
ドラグが、山の鼻先に、しがみついたまま、ウィラを、見た。
『口を、開けたら、飲むぞ!』
「飲む前に、ヨカを、入れる!」
ウィラは、自分でも、驚くほど、大きな声で、言った。
「水より、先に!」
山の頭が、下がった。水を、飲もうとして。
ドラグとヒルデが、鼻先を、下から、押し上げた。頭が、水の、手のひら一枚ぶん、上で、止まった。
口が、開いた。
ウィラは、坂を、蹴った。
ドラグの肩を、踏んだ。それから、山の、下の顎の縁に、跳び移った。
目の前に、口の中が、あった。濡れた舌の根。その奥で、白い光が、どくん、と、脈打っていた。
口が、閉じはじめた。
上の歯が、降りてきた。
ウィラは、剣を、横に、寝かせた。刃の腹を、上に、向けて。刃先は、どこにも、触れないように。
受けるな。横から、当てろ。ガルドに、そう、教わった。
でも、今は。
「…受ける!」
上の歯が、刃の腹に、落ちてきた。
重かった。
腕が、肩から、抜けそうだった。膝が、顎の上で、折れかけた。錆びない剣は、少しも、曲がらなかった。曲がりそうなのは、ウィラの腕だった。
「…っ」
そのとき、うしろから、柄の頭を、誰かが、挟んだ。
開いたままの、両の手のひらで。
オスカだった。
『半分こ』
オスカが、言った。顎の上で、ウィラの背中に、胸を、つけて。
『重いのも、半分こ』
「…うん!」
二人の腕の上で、上の歯が、止まった。
水の中から、白い根が、伸びてきた。
何十本も。水の面を、離れて。山の、開いた口へ。
ヨカの根は、ウィラの足もとを、すり抜けた。濡れた舌の上を、喉の奥へ、するすると、入っていった。
どくん。
光が、一度、強くなった。
それから、外側から、消えはじめた。
腹の、いちばん外の光から。一枚ずつ、灯りを、消していくように。
最後に、喉の奥の、白い光が、ふっと、消えた。
山が、動きを、止めた。
坂じゅうの獣が、止まった。
犬ほどの獣も。錆色の板の獣も。焼けた塩の背中も。いっせいに、腹の光が、消えた。何百。何千。坂の上から、縁の外まで。
『…消えた』
ミラが、言った。
『みんな。…いっぺんに』
上の歯が、ゆっくり、持ち上がった。
ウィラの腕から、重さが、抜けた。膝が、崩れた。
顎の縁から、すべり落ちた。下は、水だった。
大きな手が、ウィラの襟を、つかんだ。
ドラグだった。片腕で、山の鼻に、しがみついたまま、もう片方の腕で、ウィラを、乾いた坂の上へ、放り上げた。
オスカも、ベルに、受けとめられていた。開いた手のひらは、二つとも、乾いていた。
「…濡れてない」
ウィラは、坂に、仰向けに、転がったまま、言った。
「…濡れてないよ」
山のような一頭が、膝を、折った。
それから、首を、下げて、水を、飲んだ。
腹は、もう、光らなかった。ただ、ごくり、ごくりと、喉が、鳴った。
その横で、シオも、水を、飲んでいた。二つの大きな背中が、並んでいた。
坂じゅうで、獣たちが、水際へ、下りていった。ヒルデが、その真ん中で、声を、張った。
『ゆっくり飲め! 押すな! 海は、逃げん!』
ゾルの家の者たちが、笑いながら、獣を、並ばせていた。
ドラグが、ウィラの横に、来た。
しばらく、何も、言わなかった。
それから、大きな手を、ウィラの頭に、置いた。
「…三度目だ」
『数えてるの』
「数えとらん」
ドラグは、そっぽを、向いた。耳の先が、赤かった。
坂の下で、ドミニクが、船べりから、身を、乗り出していた。
『ウィラ・ケイン! 一番に、乗せたぞ!』
ウィラは、仰向けのまま、腕を、上げた。腕は、まだ、震えていた。
「一番に、降りた!」
ドミニクが、吹き出した。十四人の船乗りが、甲板で、笑い転げた。
空の上で、角笛が、一回、長く、鳴った。
リーネだった。
機械が止まってから、二百八十六日目の、夕方だった。
第二十八章 了