海壁

第六章

氷の岸

挿絵:氷の岸

一頭目が、氷の岸に、ぶつかった。

焼けた塩の背中が、氷に、めりこんだ。氷が、悲鳴のような音を、立てた。割れ目の奥の赤い光が、鼻先の水を、探していた。

「押せ!」

ドラグが、盾ごと、獣の肩に、体を、ぶつけた。ヒルデが、反対側から、太い棒を、獣の首の下に、差しこんだ。

受けずに、横へ。

獣の体が、ぐるりと、向きを変えた。氷の岸から、外れて、乾いた塩の上へ、転がった。

「次!」

二頭目。三頭目。オークの兵たちが、盾を並べて、押し返した。


ウィラは、氷の上を、走った。

錆色の板を重ねた獣が、氷の岸を、よじ登ってきていた。目のない頭が、水のほうへ、伸びていた。

「オスカ!」

『うん』

二人で、剣を、持った。ウィラが柄を握り、オスカが根元を挟む。半分こ。

受けるな。横から、当てろ。

ウィラは、剣の腹を、獣の頭の横に、当てた。そっと。ちょっとだけ。

獣の頭が、逸れた。前足が、氷の上で、すべった。

半歩、前へ。

オスカが、開いたままの手のひらで、獣の肩を、ぽんと、押した。獣は、氷の岸の外へ、ずるずると、すべり落ちていった。

「…切らないで、済んだ」

『切らないの、得意』

オスカが、言った。

『あたしの手、切るの、できないから』


ベルが、氷の上で、消えた。

次に見えたとき、ベルは、犬ほどの小さな獣を、両腕に、抱えていた。三頭、いっぺんに。ベルは、それを、氷の岸の外へ、ぽいと、放った。

小さな獣たちは、塩の上で、転がって、きゃんきゃんと、鳴いた。

また、消えた。また、三頭。

ウィラは、ベルの口の端を、見た。一番と、同じ形に、上がっていた。

跳ぶ前、ミラベルも、いつも、笑っていた。父さんの前に、立つときも。


そのとき、白い光が、走った。

口から光を吐く獣が、氷の岸に、並んでいた。五頭。十頭。白い光が、氷に、当たった。

氷が、溶けた。

しゅう、と、白い湯気が、上がった。氷の岸に、穴が、開いた。溶けた水が、穴の縁から、外へ、流れ出した。

獣たちが、首を、伸ばした。

「凍らせて!」

マティアスが、穴の縁に、走った。膝をついて、右手を、水の上に、かざした。霜が、走った。水は、手に届く前に、凍った。穴が、白く、ふさがった。

次の光が、来た。別の穴。

マティアスは、左手を、かざした。

三つ目の穴で、マティアスの手が、震えた。指先が、白く、なっていた。霜が、手の甲まで、上ってきていた。

「マティアスさん! 手が!」

『…感じなく、なってきました』

マティアスは、手を、離さなかった。

『冷たいのは、うちの家の手です。…父も、祖父も、そう言っていました』


南のほうの氷が、薄くなっていた。

コンだった。

ところどころ白く凍った体が、岸に沿って、腕を、伸ばしていた。その腕の氷が、日の光の中で、少しずつ、溶けていた。体の奥の光が、弱くなっていた。

『コンが、痛いって』

ニコの声が、空から、降ってきた。ドンの手のひらの小舟の上から。

『でも、やめないって』

ドンが、動いた。

光る水の体が、コンの横へ、歩いていった。コンの上に、腕を、広げた。

コンの上に、影が、落ちた。

コンの氷が、また、白く、固まりはじめた。

ウィラは、胸が、熱くなった。

共和国の都で、ドンは、トンの屋根になった。父さんが、そう話していた。今日は、コンの屋根に、なっていた。


グレイの船の甲板で、ロズリンが、帳面に、書いていた。ケイルを、胸の布に、くるんだまま。

隊長、獣を、押し返す。三頭。五頭。九頭。

隊長、まだ、帰ってきません。

ロズリンは、ペンを、止めた。それから、もう一行、書いた。

帰ってくると、言いました。


日が、傾きはじめた。

氷の岸の、まん中に、あの一頭が、来た。

ほかの獣の、何倍も、大きかった。焼けた塩の背中が、丘のように、盛り上がっていた。割れ目の奥の赤い光が、ほかの獣より、ずっと、明るかった。

ゲルダが、氷のうしろで、叫んだ。

『あの一頭! …あれが、群れを、動かしてる!』

大きな獣は、止まらなかった。

氷の岸に、頭から、ぶつかった。

オークの兵が、盾ごと、はね飛ばされた。ヒルデが、棒ごと、氷の上を、転がった。

氷が、割れた。

大きな割れ目が、氷の岸を、まっすぐ、走った。

ドラグが、割れ目の前に、立った。獣の鼻先に、両腕で、組みついた。

「止まれ!」

獣の頭が、ドラグごと、前へ、出た。ドラグの足が、水の底の塩を、えぐった。

「止まれと…言っとる…!」

獣の鼻先が、下がった。

割れ目の向こうの、水へ。

ドラグの腕の中で、獣の口が、開いた。乾いた、大きな口。喉の奥の、濡れた舌の根が、赤く、光っていた。

腹の中で、何かが、脈打っていた。三百年ぶんか、それ以上か。昔の粒の、光。

水まで、あと、手のひら一枚。

ウィラは、氷の上を、走った。走りながら、塔の東の、水路のほうを、振り返った。

水路は、もう、海の下だった。

その海の中に、白い、柔らかいものが、いるはずだった。

粒を、水に、返す子が。

『マルタさん!』

ウィラは、叫んだ。

『イーダを、呼んで!』

機械が止まってから、二百三十七日目の、夕方だった。

第六章 了