第十六章
三年

次の朝、ベルが、縁の坂の途中に、杭を、打った。
長い竿の先で。水には、触れないように。
それから、一日、杭の横に、座っていた。
夕方、ベルが、甲板に、上がってきた。
『測りました』
みんなが、ベルを、見た。
『朝から、夕方までで、建物の、三階ぶん。…上がりました』
「三階ぶん」
ウィラが、くり返した。
『はじめは、速いです。底は、狭いので。上へ行くほど、窪地は、広くなります。上がり方は、だんだん、遅くなります』
ベルは、竿の印を、指でなぞった。
『このままなら』
ベルは、少しだけ、黙った。
『三年で、縁まで、届きます』
甲板が、静かになった。
ウィラは、手すりを、握った。
三年。
覚えていた。本部が、そう言ったと、聞いた日のことを。海壁の仕掛けを、全部、回します。三年で、西の海を、粒にします。
その三年は、あとで、二年に、縮んだ。父さんとミラベルは、海を、守るために、走りつづけた。
「…三年で、海が、なくなるはずだったのに」
ウィラは、言った。声が、少し、震えた。
「三年で、海が、できるんだ」
『はい』
ベルの口の端が、一番と、同じ形に、上がった。
『逆です。…一番が、聞いたら、跳ねます』
「跳ねるね。…三回、転がる」
その夜、グレイが、甲板に、みんなを、集めた。
『わしは、帝都へ、帰る』
グレイは、言った。
『三つの家の者を、裁く。長たちと、一緒にな。…それから、灯りだ。十年の、約束がある』
議長のエドガーが、うなずいた。
「共和国も、帰る。…畑の者たちに、話さねばならん。ここで見たことを」
グレイは、ウィラを、見た。
『ケインの娘。おまえは、どうする』
ウィラは、リーネを、見た。オスカを。ベルを。ガルドを。ドラグとロズリンを。
「海壁の街に、帰る」
ウィラは、言った。
「ミラベルの石と、リーネおばあちゃんの石に、言いに行く。…海が、できたって」
リーネが、ウィラの袖を、引いた。
『あたしが、言う』
「うん。リーネが、言って」
グレイは、うなずいた。
それから、少しだけ、黙った。
『ドラグ・モーテンセン』
「…なんだ」
『壁は、人を守る壁に、戻したと、言ったな』
「言った」
『わしの字で、おまえを、あそこに立たせた。…十四年前だ』
グレイは、ドラグを、まっすぐ、見た。
『今度は、おまえの字で、立て。誰に言われたのでもなく』
ドラグは、長いこと、黙っていた。
それから、短く、言った。
「…とっくに、立っとる」
グレイの白い髭の下で、口の端が、少しだけ、上がった。
夜更け、ドラグは、縁の坂の、いちばん下まで、下りていった。
新しい海の、波打ち際まで。
ロズリンが、ケイルを抱いて、坂の途中で、立ち止まった。乾いた塩の上で。
ドラグは、膝まで、海に、入った。オークは、海の水では、変わらない。
月が、出ていた。新しい海の上に、長く、映っていた。
ドラグは、振り向いた。坂の途中の、ロズリンを、見上げた。
それから、大きく、息を、吸った。
「ロズリン・モーテンセン!」
窪地じゅうに、声が、響いた。
甲板の上で、ウィラが、飛び起きた。リーネも。オスカも。
「ロズリン・モーテンセン!」
二回目は、もっと、大きかった。
ロズリンは、坂の途中で、動けなくなっていた。
畑の、一の墓の前での婚礼。オークの婚礼では、婿が、嫁の名前を、大声で三回叫ぶ、と、ケイルが言った。ドラグは、二回、叫んだ。三回目は、ロズリンの前にしゃがんで、小さな声で、言った。
あのとき、叫んだのは、ロズリン、だけだった。名字は、まだ、ヴェイクだった。
ドラグは、三回目の息を、吸った。
「…ロズリン・モーテンセン!」
声が、窪地の、向こう岸まで、届いた。届いて、こだまになって、戻ってきた。
ロズリンは、チビを、胸に、抱きしめた。それから、眼鏡を、外した。目を、こすった。
ドラグは、海から、上がってきた。坂を、のしのしと、上がってきた。ロズリンの前で、止まった。
「…兄貴が、言うとった。叫ばんと、お袋が、がっかりする、と」
『三回、叫びました』
「数えたのか」
『記録係ですので』
ロズリンは、帳面を、開かなかった。開かずに、ドラグの胸に、額を、押しつけた。
『…書けません。今は』
「書かんでいい」
『あとで、書きます』
ロズリンの声が、くぐもった。
『名前は、言うと、増えるんです。…ミラベルさんが、そう言っていました』
ドラグは、ロズリンとチビを、まとめて、太い腕で、抱えこんだ。
「…なら、毎日、増やす」
『毎日、叫ぶんですか』
「毎日は、叫ばん」
ドラグは、そっぽを、向いた。
「…小さい声で、言う」
甲板の手すりで、ウィラは、それを、見ていた。
リーネが、隣で、指を、折っていた。
『いち。に。さん』
「何、数えてるの」
『ドラグの、叫んだ数』
リーネは、三本の指を、見ていた。
『おじさんは、一回だけだったんでしょ。好きって言ったの』
「うん。…でも、毎朝、一滴、落としてた」
『じゃあ、いっぱい』
リーネは、満足そうに、うなずいた。
ウィラは、首の袋に、触れた。中に、ミラベルの、最後の一粒が、入っていた。印のない粒。名前の、書いていない粒。
「…ねえ、リーネ」
『なに』
「帰ったら、ニムさんの店で、筆を、借りよう」
『何、書くの』
ウィラは、少しのあいだ、黙っていた。
それから、言った。
「まだ、分かんない。…でも、書きたいの」
リーネは、自分の手の中の、父さんの粒を、見下ろした。
それから、ウィラの顔を、見上げた。
『…あたしも』
月の下で、新しい海が、静かに、寄せていた。
機械が止まってから、二百五十三日目の、夜だった。
第十六章 了